2013年10月16日

本日、ねとらじ出演します

 ぎりぎりになってしまいましたが、告知です。
 今晩、22時より「ねとらじ」に出演させていただきます。
 聴き方はリンク先を参照してください。
 珠帆美汐さんは、実際にお目にかかったのは、ついこの間なのですが、茸好きの素敵な方です。北海道を中心にコーチングなどで活躍しておられます。この放送枠には、畏友・二子渉さんのラジオ出演以来、たのしみです。

 「妖怪ラヂオ」計画のはずがエロ話!?
 どうしてなにがこうなってそうなるのやら、こちらも愉しみにしております。

 「珠帆印inねとらじ」の聴き方は、下記のURLを参照してください。
http://therapist-jp.com/modules/d3forum4/index.php?topic_id=243
posted by 甲田烈 at 15:21| Comment(0) | 妖怪学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月01日

「ライト・ランゲージ」の本質看取、あるいはむしろ、コトバとはなにかの入り口。

 先日、ちょっと面白い体験をしてきました。 
 もう10年来の知人で占星術を生業としている方からお誘いを受け、「ライト・ランゲージ」のワークショップに被験者としての役割で出てみたのです。とても楽しめる経験でした。

 「ライト・ランゲージ」については、いろいろとこの言葉で検索してみると音声と動画を観る事ができますし、英語でも日本語でもサイトやBlog記事があがっています。
 キリスト教文化圏においては、基本的に「異言」として知られたきた現象です。
 ライトランゲージの使い手たちの定義をみてみると、宇宙の諸存在たちからの愛を無条件で受け入れるためのツール、という言い方がされています。それはわれわれが通常、「言葉」としてイメージしているものからすると、「音」に近いもので、余計な判断がそこに入らない為に、ヒーリングとしても使われているようです。

 どうしてそのようなものに参加してみたかというと、ここのところそうした精神世界的な事象とは意識して距離をおいており、久しぶりの友人の頼みということもあったのですが、もう一つ、私の持つ言語感覚から推して、これは普通のことなのではないか、と考えたからです。
 私は身体に障害を持っていますが、それは体幹機能障害といいます。脳の運動野に電気的な障害があるということなのですが、体の動作が不自由な上に、発音が分明にならないということが、長く続きました。これは構音障害というのですが、発音が分節されずに、つながってしまうのです。そうすると傍目には、同一音の繰り返しやうなり声やおたけびに近い形で聞こえます。しかし、施設にいたときは、仲間内とは、それで立派に「会話」が成り立っていました。どこそこに待ち合わせるとか、こう思ったとか、少なくとも簡単なことは、意思疎通ができるのですね。今は施設にはほとんどいかないのですが、それでも行くと、意識的にモードを変えて、「その言葉」を話す自分もいたりします。

 構音障害から日常言語習得をしたことで、私には言語に対する「両生類的」ともいうべき感覚が芽生えました。これは音声とともに「意図」で会話をするという感覚です。

 そうしたことと、「ライトランゲージ」と呼ばれる現象との差異と共通性はどんなところにあるのだろうか、ということが主要な関心だったわけです。

 さて、WS。
 これはジャッジを入れるな、という友人の依頼で、シェア会までは極力参与観察的姿勢を保つことにしました。まず、呼吸から声を出していく導入のワークのあとに、いよいよ施術。自覚症状もあったけれど軽減を感じていなかった、いくつかの不調の指摘のあと、どうやら、肉体に近いところの「オーラ」の不調を整えるという説明だったのですが、人体内のミトコンドリアに影響を与えるというのもので、波動・響きというものに焦点づけされているようでした。私はこうしたことの体感はないほうなのですが、もう6〜7年ライトランゲージのヒーリングをされている方の雰囲気が「言葉」を話すときに変わるのは印象的で、もともとのしっかりした感じが、さらにしっかりした感じになったのが印象的でした。「言葉」は「アルクトゥルス」という星系はじめの連合体からきているという説明でたが、音声的に意味をとろうとすると、音節はフランス語のように聞こえ、意味不明でした。ただ、感じの悪い響きではない。身体の症状も今のところ自覚した変化はありませんが、おそらく連日出かけていたことも含め、疲れからかぐっすり眠れたくらい(笑)

 さて、モニターがすみ、もうお一方の「宇宙の記憶」をみてから、私の友人も「ライトランゲージ」」を話したのですが、これはまたアラビア語かロシア語に聞こえるような響きで、さきほどとも異なるのはかなり「ばしっと」力強くくるものだということでした。友人が、「翻訳」にとまどっていたのが、ちょっと可笑しい。
 最後は、寝ながらピアノの音とライトランゲージを聴き乍らのワークで、これも声を出されている方もいて、会場の雰囲気もあり、リラックスした方が多かったようです。

 さて、シェア会で、私に対して施術した方は所用で帰られたので、メールで質問の確認をしているのですが、私の友人含めもう一方も残っておられたので、かなり話は弾みました。
 以下、WSを受けたあとに考えたことを、シェアした部分もふくめ記しておきます。
 「ライトランゲージ」を話すために、なにかの特段の訓練は不要なように感じました。では、「ライトランゲージ」が通常の言語と異なる点はなんでしょう。言い換えれば、どういう条件が揃ったときにそれを「ライトランゲージ」と呼ぶのでしょうか。
 それ以前に考えておきたいのが、われわれの使っている言葉とは何か、ということでしょう。これについては結論だけあげれば、言葉には「記述」と「解明」の機能があります。竹田青嗣は『言語的思考へ』という優れた現象学的言語論の中で、言語には「一般言語表象」と「関係企投的意味」という二つの側面があることを述べています。前者は言葉の持つ辞書的な意味で、後者はそれに対して生活の中やコミュニケーションの中で生成される言語の意味機能ということです。この関係企的意味はさまざまなヴァリエーションがありえますが、宗教・スピリチュアリティの言語もその一つでしょう。私はこれを「解明型」と呼んでいます。と、いうのも、そこで用いられる言語は象徴的なものが多く、一般言語表象がそうであるように、指示対象の明確な真偽命題に還元できるものと異なり、聞き手や語り手にとって、自身の経験が編み変わっていく契機となることに焦点づけられているからです。

 たとえばこれは日常言語でも見られる場面ですが、「君はお腹がいたい」という記述的な言語に対して、ある人のふるまいをみて「お腹いたいの」と尋ねたときは、その都度に経験されている事柄に対する反照が生じます。この場合であれば、聞き手は「お腹の痛さ」に該当する感覚が自身に生起しているかと問い直し、語り手に応答するわけですし、語り手はその応答によって自身の感覚の手応えをたしかめるわけです。

 これが宗教的場面においては顕著に働きます。たとえば禅の師匠に「仏とはなにか?」と問われたときは、「仏」の一般表象が問われているのではなく自身の「ありかた」が問われているのですし、また逆に師に「仏とは何か」と問うて「庭先の柏の木」と答えられた場合、自然観察ではなく自己と世界の関係をふまえた生き方が問い返されているわけです。

 ところで「ライトランゲージ」も音声としては意味不明です。けれども、「響き」としては「意図」するところがあります。通常それも同時的に翻訳されてわかるのですが、聞き手がその「翻訳」と「響き」に内的照応を成立させた場合に、それは初めて機能するのです。それは通常の意味了解と異なり、悩みや身体症状の寛解や自己理解の更新といった経験の編み変えに寄与するものです。そうした意味では、「解明」型の言語使用といえます。結果がすべての場面で機能するがゆえに、ヒーリングという文脈とも親和性があるのではないでしょうか。

 もう一つ、「ライトランゲージ」と言われるものの条件があるように思います。それはさしあたり仕手にとっては「他者」の言語として感受されるということです。それは「アルクトゥルス」であったり任意の名称を持っていますが、日常に誰にでも感知できるものではありません。その「他者性」が「他者性」として顕在化することが、「ライトランゲージ」の信憑を支えているではないかと思われます。

 しかしこれにはいくつかの注釈が必要でしょう。まず、外国語の翻訳がそうであるように、また通常の外国語の同時通訳がそうであるように、通常、言葉は翻訳可能だと考えられています。それはなぜかといえば、指示と意味の編み替えの「同時性」がわれわれに認識されているからです。これは認識構造の同型性とは異なり、その言葉をその言葉として表現せざるをえない局面があった、という形で言語形式が了解されることをいいます。この「同時性」も深層においては、宗教/スピリチュアリティの言語使用と接続しています。たとえば私たちは「あっ」の中に、驚きや哀しみや予期に反する出来事や寝言を読み取りますが、その「あっ」が「あっ」でなければならない時があり、それをたとえば「Ah!」として同時的に掴まえて行くことが、翻訳というものだからです。その同時性においては、自他の差異はありません。

 そうだとすると、「ライトランゲージ」の役割は、「他者性」であるところのその「他者」が「自己」であることの認識の完徹において、やがてはその機能を終えることになるのかもしれません。しかしそのことは他ならぬその「響き」たちが要請するところでもあるのです。私が「さしあたり」といったのは、そのためです。

 それでは、「ライトランゲージ」の本質とは何でしょうか。

 私の見地からいえば、「日常語とのコントラストを媒介にして生起する経験の編みかえ」ということになります。

 けれどこれって、誰でも経験していませんか?

 たとえば赤ちゃん言葉のような喃語と呼ばれる現象や、子どもたちのやりとり、「あれ」、「うん」といった熟年夫婦のやりとりまで。「ライトランゲージ」は、さしあたりの他者の言語なのですが、それは響きと意図として、日常の平々凡々たる事実を指し示しているようにも思えます。
 おわりに、ちょっと有名な動画ですが、おととい、友人が教えてくれたものを紹介したいと思います。それは双子の赤ちゃんが「たたた」だけで会話している風景です。
 私はここに、「ライトランゲージ」だけでなく、言葉の本質が生起しているのをみるのです。

 著作権のことなど考えリンクははりませんが、興味があればYoutubeで「たたた 赤ちゃん」とか"Talking Twin Babies "と検索してみてください。
 なかなか、考えさせられますよ。
 
 
posted by 甲田烈 at 11:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月24日

【報告】妖怪cafe第4回・開催の報告と御礼

 昨日は、西武新宿線の武蔵関駅での人身事故の関係で、30分遅れのスタートでしたが、無事に妖怪cafe第4回を開催することができました。他の参加者の方には幸いにして事故の影響による遅れや不参加はなく、連休最終日にもかかわらず、新しい参加者の方も含めて8名もの参加でした。みなさま、ありがとうございます。
 それにしても、西武新宿線の事故というものは珍しい気もします。一度警察と消防で救出活動を行い、すんだと想いきや、再度現場検証に入ったという車内アナウンスが流れ、事故の雰囲気が濃厚だったため、急遽ルートを変えての会場到着でした。西武線の運行は深夜まで乱れておりましたが、遅い時間でも乗り換え客の対応をしっかりしていたのは、さすが、と思った次第。

 さて、妖怪cafeは、新規参加者もおられたために、まず井上円了の全体像にふれることから軽くスタートしました。
妖怪カフェ.jpg

 多彩な顔を持つ円了ですが、今年は円了の妖怪学の思考を紐解きつつも、「妖怪を深く味わい、考える」ということを基本に、話をすすめています。毎回、円了の文章をみなさんで読んでみるのですが、今回はこんな感じ。
円了.jpg

 円了は「幽霊」もまた「現象」であると考えています。その幽霊論のポイントは、幽霊をそれが立ち現れる条件(円了はそれを仏教哲学の用語としては「縁起」を意味する"事情"という言葉で示しています)を中心に考え、霊魂の問題を「真怪」に結びつけている点です。

 とはいえ、古典的な説話集から近世の怪談、そして現代のJホラーや現代民話まで広くみた場合、「幽霊」の具体的なたち現れの諸相も一様ではありません。
 たとえば、近世にはこんな「幽霊」がいました。
スキャン 3.jpg

 「逆さまの幽霊」は歌舞伎のモティーフにもなっていますが、もともとは死しても復活しないために「逆さま」にして殺害されたものが、なおそのままの姿で立ち現れたさまを示しています。けれど、逆さまのままでは川を渡れないために、船乗りに頼むという、微妙に切ないストーリーです。しかしこの逆さま。なんでも逆になるというアイヌのあの世観とも、もしかしたら通底しているのかもしれません。

 また、「幽霊には足がない」というイメージは今日でも主流ですが、そのようなイメージは1600年代に「産女」の図像イメージとともに誕生したもので、説話集である『今昔物語集』巻二七や、『北野天神縁起絵巻』では生前の姿と変わらない足のある幽霊が描かれています。

 また、被災地で体験される「幽霊」譚には、NHKでとりあげられた「白い花弁」の話のように、亡くなった人の姿・形があらわれるのではなく、なにかを暗示させる「瑞々しい」ことが印象に残るような花弁に気づかされる、ということもあります。

 さて、広く「幽霊」譚を探り考えてみると、「幽霊」とは「触覚」をめぐるコントラストを特徴とした諸経験のように思われてきます。触れるはずなのに触れられない。触れられないはずなのに触れられる、なにもないはずなのに感じる、そこにあるはずの姿がない、など。こうしたことは、共通する本質のように思われます。

 参加者の間では、活発なシェア・討議がかわされました。
 とりわけ印象に残ったのは、3.11以降、被災地の体験談が知られるようになってきたことも受けて、従来の記号=表象に重点をおかれてきた「妖怪研究」のありかたが変わっていくのではないかということや、「幽霊」はこの世になくてはならないということなど、でした。

 次回は11/25(月)予定ですが、自然の植物や鉱物と人間との関わりから妖怪について考えてみたいと、今のところは考えています。
 踏み込むほどに深く愉快な妖怪の世界を、今後とも解き明かしていきたいと思います。
posted by 甲田烈 at 18:46| Comment(0) | 妖怪学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする