2011年10月12日

 ふんばろう東日本支援PJ・いのちの健康プロジェクトについて

 今年4月から,ご縁があってふんばろう東日本支援プロジェクト」という活動に関わらせていただいております。
 目的は被災者支援。行政の手の届きにくい領域にきめ細かい支援を継続的に行うという目的から,あえてNGO・NPOという形をとらず「人から人への支援」を基軸に,これまでは物資支援を中心に活動してきました。震災後半年以上がすぎ,その方向は継続しつつも,被災地域の状況やニーズの変化に応じて,今後は教育や就労,心のケアといった支援が必要な局面にさしかかっています。
 そうしたことをふまえ,ふんばろう東日本支援プロジェクトは,より総合支援サイトとしての側面を重視するものへとリニューアルオープンされました。→http://fumbaro.org/

 是非,多くの方にご覧いただき,さらに支援の輪が広がることを祈念しております。

 とりわけ本プロジェクトにおいて,私が関わらせていただいているのは,いのちの健康プロジェクトです。→http://wallpaper.fumbaro.org/rinsyou

 4月中旬に代表にお声がけいたた゜き,「とにかく現地をみたい」ということで4月末に被災地入りして帰宅後,情けないことに私は数ヶ月もの間,気持ちのいうことを身体がきかないという状況にいたり,大学の講義や支援の構想・ミーティング参加など,最低限のことはこなしつつも,夏に入るまで寝たり起きたりを繰り返していました。

 すでに多少とも整理されていた壊滅状態の街に立ち尽くし,言葉を失ってしまった経験は,生涯忘れられません。

 被災された方々の過酷な経験は言うまでもありませんし,その中で少しでも元気を取り戻して維持していただくために,誰にでも自分でできるセルフケアの知識が提供できないかと思いました。また,支援者が意気込みすぎて,疲れ果ててしまうことのないように,支援者の心身を支える仕組みも必要だと痛感しました。

 「いのちの健康」は,「場」をはぐくむことを目的としています。
 それは自身のからだ・こころ・いのちのつながりを開くことや,そこから自然に他者へと開かれていくことです。
 無理に,なにかを意味づけたり,がんばりすぎたり,はげましたりする必要はありません。
 支援する/される側に関わらず,自らの心身という「器=場」への気づきや,他者との自然な交流の中から,生きる力がはぐくまれていけばいい,と,そんなふうに思っています。

 現在のところ,セルフケアの情報提供という小さな,とても小さな活動でしかありません。
 けれども,「ふんばろう東日本支援プロジェクト」全体はもちろんのこと,「いのちの健康」プロジェクトも適時ご協力いただける参加者を募集しております。

 是非,みなさまに周知していただき,今後とも活動を暖かく支えていただけるよう,お願いいたします。

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posted by 甲田烈 at 19:36| Comment(0) | ポジティブ哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月21日

怒りをおさえる前に

 どうしても,怒りについて書いておきたくなりました。
 ちょっとしたことで怒りを感じたことから,人間関係の溝が深まり壊れて行く,そんな光景をいつか目の前にして,一肌脱ぐべしと思ったのです。
 怒りは放っておくと哀しみに転化して蓄積されたり,はなはだしきは憎悪や憎しみという「概念」をともなう抽象感情として幽霊化してしまいます。

 化けてでたらさあ大変。

 じゃあ,どうすればいいのでしょうか。
 怒りにまかせてぶち切れていては,当然,周囲との関係に軋轢が生まれ,またそれが悔しい悲しい想いの連鎖を生んでしまいます。

 巷にはよく,「怒りを手放す」とかいって,「まあまあ落ち着いて,お茶でもおあがり」と,まるでおばあちゃんが声をかけてくるような本の情報も多いのですが,鎮められたら世話ねーよってとが,本音ではないでしょうか。

 そう,怒りとか,他の感情も,味わうことは大切ですが,鎮める必要なんかありません。
 怒っても,いいのです。
 いや,そもそも,感情を敵のように考えているメンタルトレーニングなどは,実は近代の理性中心主義の名残だといえるでしょう。もっとも,紳士になるためには,そんなお手前も必要かもしれません。

 しかし,ここでは,かくいう筆者のようにものわかりが悪く,多情多恨な方のためのことを対象としましょう。

 怒りとのつきあいかた。
 紳士になれずとも,真摯になればいいのです。

 言い換えると,マジに怒ることです。

 ええ?そっそんなことしちゃったら,人間関係ハチャメチャに・・いいぢゃないですか,,どうせこの世は夢・・・なんて,実践性のない処方箋はもちろん述べるつもりはありません。

 真摯に怒るとは,怒りを呼び起こした(と思われる)相手に対して,感情のままに憤懣や罵詈雑言をぶつけることではありません。
 せっかく生まれた感情です。根深い怨みへと育成するのも一興ですが,もっと大切にしてみましょう。

 それには,吸う息と吐く息,とくに吐く息を意識しながら,その感情を味わうことです。怒りが湧いた瞬間。これには効果があります。なぜならば,「怒り」と僕たちがラベリングした感情の,その奥行きが見えてくるからです。本当は,ここから感情体験の木戸銭を払っていただき,特等席で極上の怒りを・・とも思うのですが,それは日々,コネタのつきないこの現象世界でご賞味いただくとして,先にすすみます。

 「怒り」とラベリングした感情の奥行き,と言いました。
 そこには,たいてい「苦しみ」があります。「苦しみ」とはなにかというと,体験の回避です。つまり,「こんなこと経験したくないのに,しちゃった,どーしてくれる。でもしたくねー」てっいう,一時代前の乙女心さながらの複雑な心情です。

 あなたは(怒っているときの私でもいいです)は,誰かに傷つけられたり,不条理な目に遭わされたと思います。でも,それはもしかしたら正当なものかもしれないし,適切ではない思い込みでしかないかも知れません。

 ですから,自分の怒りの質感をゆっくりと味わったあと,不快がらせないことを前提として,相手にしっかりそれを伝えることです。伝えてみれば,もしかしたら誤解かもしれないとか,言葉足らずなどによる行き違いとか,相手も実はいっぱいいっぱいの状態だったとか,いろんな光景が見えてくると思います。

 では,どうすれば,相手を不快がらせずに怒りを伝えることができるでしょうか。そのポイントが「真摯」です。つまり,メッセージの中に,相手に対する尊重を明示するのです。これは言葉にすると,まず(1)相手に自分が怒っていることを伝える。(2)その怒りに対して,自分が怒りを抱えつつも,相手とのコミュニケーションに対して最善の努力をはらおうとしていることも伝える。(3)そして,SOSも出す。つまり,自分が怒りを感じていることは苦しい事で,この苦しみは他者に伝播させたくないことも伝える,ということです。

 たとえば,「昨日,約束の時間にすっぽかされて,僕はそのことで腹が立ってムカムカする。けど,それを飛び道具みたいに君にぶつけたくない。せっかく関わりを持てた大切な関係の一つを壊したくはないんだ。だから,このことについて,君がどう感じているかを聞きたい」とか。言葉にすると理知的に聞こえますが,ポイントはめっちゃ怒ってます→でもそれを放り投げるなんて大人げのないことはしねーよ→だっててめえも大切だからな→こんなことってさあ,君もないか?どう感じる/思う?というポイントを外さないこと。

 怒りは,抑える必要はありません。
 めらめら燃やし尽くし,味わいくしていいと思います。
 ただ,それを体験したくない/体験しちゃった,という振り子のジレンマに終わらせずに,探求の,宝探しの機会に,ごっそりと変えてしまうことです。

 以上に書いた事は,怒りに関して絶対的な解決法を提示することを目的にしてはいません。絶対的な方法など,ありません。ただ,このような怒りに対するつきあいかたをすることにより,相対的に,怒りによって他人との不和に陥らず,かえっておたがいの探求の機会に変える可能性が高まるということです。

 この「怒り」に限らず,感情は大切に味わうことで,探求の機会を与えてくれます。決して,ものわかりよくなる必要はありません。わからないことはわからないとはっきりと知り,そのことをわかりたいと思い続けることの方が世の中きっと面白くなります。

 最善を尽くし,真摯であること。これが,関わる他人に同様の態度を喚起したとしたら,たとえわかりあえないとしても,気持ちよくわかりあえないことでしょう。すべきことは,すべてしたのですから。

 これは,社会や政治とか,抽象的なものへの怒りについても同じです。
 応用例ではありますが,それは自分の内面だけでなく,他人や組織との関係性についての探求の機会となります。

 怒りは無視してもおさえてもいけません。それは不健康です。
 はっきりと怒り,そのことを味わい,表現していいと思います。
 ただ,怒りを我慢するのでもなく,ぶつけるのでもなく,怒りを開くことです。
 
 そこからは,どんな花が咲くでしょう。

 さて,かくいう私も短兵急で喧嘩っ早いです。
 今も,実はちょっと怒りを感じています。さて,もう少しこいつを楽しんでから,花を咲かせてみようと思っています。

 ただ,最善と真摯を忘れずに。
posted by 甲田烈 at 00:17| Comment(0) | ポジティブ哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月14日

おぞましいものをめぐる談笑

 ■人間の「運」という考え方は、観測的な未来から発生する。そうしている限り、人は時間の奴隷にとどまるのではないか。一瞬先になにが起こるかわからないということは、とてつもないラッキーでもありうる。ここでは、悠長なことなんか言えないことが恵みなのだ。

 ■この惑星や人類史という時間軸。自身の中長期的将来という時間軸。短期的な今日や明日という時間軸。一瞬一瞬という時間軸。そしてそもそも、「時」というものに入らない「永遠」というもの。一番最初と一番最後、そしてその手前に重点をおくことを、以前より意識的に「選択」していることに気づく。

 ■私個人に関していえば、震災前からの楽観志向がむしろ強化されたように感じている。「死」ということも気力体力の低下から差し迫ることとして感じていた時節もあるけれど、それとはなぜか関係ない。それは危急時において、むしろ人は連帯できると経験からも感じたことが多い。

 ■また、放射線に対する「不安」についてはこう思う。多くの人が長引く緊張から危機意識をブラインドして、麻痺していると決めつけるのも問題である。もしかしたらこころの奥底で淡々と死を覚悟し、言っても言わなくても死ぬときは死ぬので、ただ言の葉に触れないという可能性もある。

 ■最も目を背けたくなるおぞましいコト・モノこそ、当該の個人や社会にとって、最大の祝福でもある。いずれ、隠されたものは現れる。けれど、存在論的露悪に走る必要もなく。

 ■今の時期に、いやこれから、もっとも重要になるのは、想像力と行動力を織りあわせることなのだと強く感じている。想像を絶するような津波の被害については、現地に行けるかいかなくても慎重に語っていいと思う。でなければ空論になる。

 ■われわれは、ハリウッド映画の民ではない。好き嫌いの傾向はあるにせよ、どこかで寅次郎や豆腐小僧のことがわかるのである。つまり、やるせなさやどうしようもなさといった「非力」が、何をなしうるかを知っているということでもある。切り開かなければならない「運」よりも、「非力」を信じてみることも、時には「力」を抜くことにつながる。


posted by 甲田烈 at 16:37| Comment(0) | ポジティブ哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする