2011年11月04日

哲学講座開催・「TOIKATA〜考える喜びのレッスン〜」

 きたる11月29日(火)の19時〜。代々木上原の閑静な住宅街にある金壺堂にて,なんと哲学の講座を開けることになりました。
「TOIKATA〜考える喜びのレッスン〜」と題し,まずは「考える」ために「問う」ということの大切さについて,坐学とワークを含め わかちあいできればと思います。適切に問い,考えることがでれば,確実に情報の海に溺れることなく,悩みも減っていきます。

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 よく「論理より直観」とか,「考えるよりフィーリングが大切」と世間では言われ,また,「考えてもしょうがない」とか「考えると気が狂いそうになる」という声も聞きます。しかし,よくよくそういう場合に尋ねてみると,それは「直感」であって,しっかり考えたあとの「直観」でなかったり,「考える」というより,たくさんの知識や判断の中で迷い,溺れそうになっていたり,判断と感情の違いを見極められず,両方を大切にできないために混乱してしまっていたり,ということがほとんどです。
 また,ビジネス領域では,「クリティカル・シンキング」や「ロジカル・シンキング」といって,一見「論理的」に考えることを推奨していますが,ビジネスモデルの前提となっている「無限成長」のモデルが疑われず,ややもすると「こう考えればこうなる」という指南の形となるために,一人ひとりがじっくりと「考え」を深めるに至りません。

 人は見たいものを見ますし,えてして自分が「あたりまえ」と思っていることを疑ったりはしません。その向こうに,どんなに広いびっくりするような世界が広がっていようとも・・・・。この講座では,「こう考えれ楽になる」ということは目的としてはいません。一人ひとりが自律して,「あたりまえ」に目を向けながら「考える」ということを目的としています。まず第一回目は,「考える」ことを始めるための「問い」に出会い,深めることについてわかちあってみたいと思います。事前に哲学史の知識などは不要です。むしろ探究心以外,頭をまっさらにしておこしください。詳細はこちら→http://kinkodou.com/workshop.html#other-special-events
posted by 甲田烈 at 18:40| Comment(0) | ポジティブ哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポジティブ哲学の帰結・ひっくり返って,「これでいいの」だ!

 ◆「ポジティヴ哲学」というもののレクチャーを今秋にやることになっていたのだけれど,流れてしまっていつになるやらわかない。個人的には岡本太郎・天才バカボン・親鸞がテキストで,「喜び」というポジティブ感情の底上げ(従来の介入プログラム)と底抜け(それとは真逆の非介入的姿勢)のあわせ技を使おうと愉しみにしていた。個人的にはこれからいろんな方に声かけていくつもりだが,まずは論文からと。

 ◆私は「妖怪」ばかりやっているわけではない。「妖怪」は好きだけれど,それはひとつの「門」なのだ。つまり,人がこの世界に在ることの不思議を観ずる「眼」を持ち探求を始めるならば,「門」の役目は終わる。入り口の「妖怪」のところで,さも非日常ばかりをこちらがありがたがっているように誤解したり,文字通りにそういうものが「ある」ものと誤解されたり,かつまた単なるパフォーマンスとしてみられるのも面白くはないと感じていた。
 「妖怪」とは「異常で不思議な現象」のことである。「立ち現れ」(現象)を底板としてみたとき,実在/非実在というような軸は選択する「視点」によって異なり,分析法も多様な関心や目的と相関していることがわかる。そうすると,この世界はより楽しめる。

 ◆これまで論文や学会発表をするときに,どうしても斯界に貢献できないかとか,そういう気持ちがないわけではなかったが,たちの悪いことに(笑)そういうものは一切とっぱらってしまった。かなり自分のためにやるのだ。もろん自分のすることがめぐりめぐってどこかで役立つこともあろうかとは思う。と,肚決めると,でるわでるわ本音が・・・という感じ。以下は紀要にもちろん体裁整えてまとめるので,とりあえず一般の目に触れないけれど,レクチャーとしてみなの目の前に公開するのも日が近い気がする。

 ◆ 「私の懺悔はスピノザの非難した自己の無力より出発し,自己は自己の存在の資格を持たぬものとしてこの要求を放棄する。そこにスピノザの懺悔と相通ずるところがあるというも,しかしスピノザにては無力の無力を懺悔というが,未だ真に懺悔に徹したものと言うことはできない。私の懺悔にては,自己は自己の存在を放棄することに依て,かえって自己の存在を自己ならぬものから受取る,すなわち無力が能力に転ぜしめられるのである」(田邊元『懺悔道としての哲学』)。ポイントは自己ならぬものからの自己存在の「受取り」,そして「無力が能力に転ぜしめられる」ということ。ポジティブ哲学は(紀要論文執筆中),このスピノザにおける「より大いなる完全性への移行」としての「喜び」と,田邊のいう「無力の有力」としての「感謝(報謝)」を包覚するものである。スピノザの道は従来のポジティビティつまり「表」の道であり,田邊のそれは「裏」の道といえる。親鸞の三願転入の移行経験とは,一見するとより「小さな完全性」への移行,つまり自己の活動力の減退を意味するのであるが,裏面においてそれは世界からの働きかけの受容でなければならない。
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 ◆回転することは包むことでなければならない。反転といっても,その反転が世界の側からの催起である限り,それは無力の自己を包覚するものである。ここで「自覚」ではなく「包覚」というのは,もはや覚するべき自己というものは「現象」として,ひとたび懐疑の対象とされているからである。つまり,「自己」を包む「現象」が懺悔を媒介として展開するのである。

 ◆ 従来の田邊研究を観てみると(数はすくないけれど),あまりにもこの「懺悔道」を敗戦間際の田邊の個人的宗教体験に帰さしめるものばかり目立つ。しかし田邊が懺悔道として説いているのは理性の過信からその自己批判(絶対批判)のプロセスであり,その意味では心理学的報告として読まれてもいいのではないだろうか。そして非人称的方法論からポジティブ心理学を構造化しようとするとき,このような「無力の能力」としてのポジティビティが,日本の真宗の精神構造にも深く根ざしていることは,単に「能力」を高めるポジティビティ理解にひとつの疑念を抱く日本やヨーロッパの研究者をして,その懐疑とそしてそこにとどまらず「無力」の包覚にも根拠づけられたポジティヴ感情の研究に示唆を与えることになるだろう。

 ◆ つまり,人は一度己の理性の機能を徹底的に批判するという「経験」をかいくぐってもよいのだ。宗教的には「魂の闇夜」という。そもそも「考える」ということの徹底から「考えるな,感じろ」というテーゼが出てくる。テーゼの自己展開つまりスピノザ的には事物それ自身による肯定や否定という道行きを「人」が妨害してはならない。ポジとネガが反転しそして包覚されるとき単なる「無知」は「無知の知」となり,また「知」へと転ぜられる。かくしてこのプロセスは生として進行するのである。

 ◆局外者には難しくなりすぎた。要するに,「喜び」とは自己の可能性を展開して「花開く」ような側面もあれば,「自分ってだめぢゃん」の胴に入った感覚からも自然と生まれるということ。大きくでようが小さくなり底抜けようが,絶対的な肯定の世界がそこにあるということ。バカボンパバの「これでいいのだ」の哲学的帰結。

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posted by 甲田烈 at 11:17| Comment(0) | ポジティブ哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月29日

哲学講座計画中! 「良さ」の探求のために

■哲学の実社会に与える利益について,井上円了は次の4項目をあげている。知力の錬磨・思想を遠大にすること・情操を高尚にすること・人心を安定すること(『哲学早わかり』)。これはまったくそのとおりと思う。要するに,「ようく考えること」の効用ということなのだけれど。そして哲学史の知識というのは,「考え方」の参考やヒントでしかない。

■まだ詳らかにはできないが,今年末,来月から明年にかけて,いよいよ「妖怪学」という応用門でなく軸のほうの「哲学」のレクチャーも始めたいと思う。こんな清々しい昼下がりには気楽にこんなことを転がしてみる。

■「対話」というものはたしかに大切だ。人との対話だけに限らない。書物とも,猫とも,植物とも,空気とも,身体とも。では,哲学的対話の目的はどこにあるのだろう。学者先生でもないかぎり緻密な対話や議論がそう必要であるわけでもない。
 
■けれども,自分の内外に複数の視点を持ち,かつ可能な限り独りよがりを回避しつつ他者とともにあるいはたった一人でも「良き」選択をしていくということの助力にはなると思う。「良さ」へのあこがれを呼び覚ます為だ。ゆえに,対話とはゴールではなく出発点でしかない。

■では,「良さ」を確信させる条件とはなにか? それによって自身の活動能力が増し,生き生きとしていくこと,そしてその相乗効果か他者のそれをも喚起,もしく共振すること。任意の理想理念は原理的に多数性を持つが,相互承認・シナジー・自律性/協調性・縁起などと構造化されていることの要点はここにあると愚考する。

■「良さ」の探求は畏友の茶人・黒川五郎氏の師匠である村井実氏が教育哲学の領域で探求された問題であった。また,モラルではなく「エティカ」の問題である。「人はただ単に生きるのではなく,良く生きようとしている」というソクラテスの命題。それは「犀の角のようにただ一人歩め」といったブッダとて実は例外ではない。

■私が非人称的方法論を基軸にしながらも,インテグラル理論や構造構成学,ポジティブ心理学,円了の現象即実在論,京都学派,ベルクソン,スピノザなどに関心を抱いているのもここが中心で,他者にとってのアイテムはまたあり,それは選べるところだ。

■ サンデルの「対話型講義」をわが国でも実践されている小林正弥氏の白熱教室をお手伝いしている方から親しくお話をうかがった。「対話」は大切,でもそのあとはどうするのか,それがいつも疑問でつまらなくもなるという。僕はそこに答えたいと思う。つまり,たしかに信念対立解明や問いの共有に資する対話は大切だけれど,それは「出発点」なのだ。

■ かつ,個人的にはーー明年論考をまとめるけれどーーサンデルの公共哲学自体には疑問もある。個別具体的にはたとえばわが国の大震災講義における「原発なき貧しい社会」と「原発を維持したままの豊かな社会」という問いの立て方もそうであったし,そもそも「対話」というものがたいへんに成熟した意識構造に支えられたいとなみなのだという心理学的洞察の欠如ーーかかる点においてはロールズに妥当性があるーーがある。

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■要するに「話せば分かる」わけではない。その場合,想像力の交換や身体感覚への差し戻し,そして味わうということも共に大切にしていったほうがまだしも, よりしなやかな交流の可能性が高まるのであって,「対話」はそこから始めてもよい。私はさしてそうと思わないながらも,「ワーク」が有効だと思う方たちは,こうした前了解的条件を整えているのだろう。

■ともあれ,こんなふうに無計画に計画している講座(笑)は,坐学だけでなく思考実験や「対話」の具体的方法,そして友人のサポートを受けての「ワーク」も含めるつもりだ。乞うご期待。
posted by 甲田烈 at 15:32| Comment(0) | ポジティブ哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする