2011年09月24日

悩み : カウンセラーへの偏見

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 驚天動地というか,自分の人生に深く関わる実存的な悩みではありません。
 けれども,いかんともしがたく,解決なんてされないだろうけれど,書いておきます。

 僕はふだんから,メタ理論の研究をしています。
 構造構成学からは,関心相関性という視点を,そして,インテグラル理論からは,人称による「構造」生成という視点を援用して,「非人称的アプローチ」という「考え方」を妖怪研究やその他に応用しています。

 その要諦は,全てのことは正しいが部分的であり,目的に応じて有効な手段を用いればいいということです。

 けれども,恥ずかしながら,カウンセラーなるものに,ちょっぴり偏見を抱くようになっています。

 実は某ボランティアで取り組んでいる「いのちの健康」班は,紆余曲折ありながらこの10月目標に独立webを公開し,そこにまずはミニマムを目的としてセルフケア情報とか被災者の心理に対するまめ知識を掲載して行きます。その一部は,トップページからもDLできるようにする方向です。

 この活動に携わりだした初期のころ,トランスパーソナル学会に連携強力できないかともちかけたたことがあります。ある支部の方を紹介されたのですが,いただいたメールが長文でーーかなり忙しいときに続けてーーしかも,カウンセリングについて一から教えてやる的な内容とか,日本では(東北でも)トランスパーソナル的な考え方とか臨床に応用されていないとか,哲学から心理学に転向した自身の来歴とか,そんなものばかりでした。

 その80%は,正直,傾聴に価するものでした。しかし,文体から漂う「私を理解してくれ」というニーズが,当時の狭量な私には堪え難いものでした。

 そういうことから,私はトランスパーソナルへの関心までーー文献は読んでいますがーー決定的に失ってしまいました。

 今でも,いや今だからこそ強く思います。

 被災者および支援者の支援になるのであれば,トランスパーソナル心理療法であろうとなかろうと,役に立てばいいのです。表看板にノーマルな心理療法をおき,実はトランスパーソナル心理療法をーークライエントが必要とすればーーしてもいいのです。それ以前の問題として,私は心理臨床プロパーの人間ではありませんから,簡単な傾聴やからだほぐしこころほぐしとか,誰でもできるスキルをカウンセラーと連携しつつ提供したいと思っただけです。

 トランスパーソナルが世に認められるか否か,そんなことはどうだっていい。
 もし,カウンセリングやセルフケアが,単なる社会「適応」におさまらず「創造」という域に踏み込んだ場合は,いやおうなくそれはーートランスパーソナルというよりーーインテグラルな様相を呈することでしょう。なぜならば,人の「いのち」は,意識・自然・文化・社会という各側面をとおして,多層多軸的にいとなまれるものだと思われるからです。いや,そんな言葉もいらない。役に立てばいいのです。

 専門外のやっかみかもしれません。もっぱらクライエントの権利を保護するという視点において,たとえば守秘義務のような外部からの閉ざされたありかたは,むしろ妥当性があります。

 しかし。
 311以前からもうすうす感じてはいたのですが,日本の心理臨床は閉ざされています。
 311以降,東京臨床心理士会をはじめ,ホットラインを設けたところには,あまり電話がかかってきませんでした。そして,避難所では,「カウンセラーお断り」という貼り紙が出されている場所も出たといいます。
 そうしたことへの一部反省は,すでに出ています。

 今回の津波主被災地域の被害は甚大で,阪神・淡路のような都市型の災害対策モデルではフォローしきれない側面があり,心理臨床領域も「都市型」の思考で動いてしまったこと。そうした反省です。

 また,医療的な支援と,現地の医療行政・支援体制の連携がうまく行っていないことも浮き彫りにされてきています。

 医療はともかく,心理臨床領域についていえば,僕は簡単にいえば,その失敗の主原因は「専門性」のふりかざしにあるような気がしてなりません。
 さきほど言ったように,心の支援はもちろん微妙な問題をはらみます。精神科診療域や専門的なカウンセリングに立ち入ることなんて,素人には無理です。

 しかし,その反面,誰でもできるような簡単な傾聴技術や,話が分かち合える雰囲気創りの知識の提供など,できることもあったと思います。心理臨床の専門家がなにげにその場のボランティアをファシリテートしたり,またはスキルを提供すれば可能なことだったでしょう。

 トランスパーソナルのようなマイナーな心理臨床はメジャーに入れない事を憤りつつその位置で自己価値を担保し続け,メジャーな心理臨床専門職は自分たちだけで全部のことをしたがる。

 そんな姿を見てしまった気がします。

 もし仮に,トランスパーソナルが今よりもっとメジャーになったーーたとえばAPAに認められーーとしましょう。そうだとしても,トランスパーソナルは,またマイナー領域の抑圧機構として作動するのではないか,そんな皮肉さえ,感じてしまいます。

 僕は長いメールに辟易しました。が,個人に怨恨は持っていません。そんな暇はないと思っていました。役に立つ事に目を向けるのが第一だからです。連携できるところとすればいい。

 しかし,トランスパーソナルとは別に,心理臨床系とて声をかけていたところも,それを承認しながらFacebookにも入ってくれず,こちらから連絡はするものの先方からは無し。

 あああ,と思っちゃいます。

 関わっているプロジェクトが動きだすと,すでにPDFで古くなっている情報もあるので,つけ足してさらに支援者や被災者の実情に沿うたPDFも創っていくことになります。そうすると,傾聴のスキルなんかについて,臨床家の助力も必要になります。

 現在のところ,「いのちの健康」にトランスパーソナル・セラピストは一人もいませんし,臨床家もわずかです。独立連携組織の方は後方支援の補完代替医療も含めた施術に特化していますから,機能は別なのですが。

 被災地ではオンラインでの傾聴という話も出てきています。しかし心理臨床の世界がーー窮極的には個人間の連携としてもーー閉ざされているとしたら,先はどうなることかと思います。まして,そうした支援者たちと地域の医療行政との連携を考えると,今以上に機能分化と連携のための方法論が必要な気がします。

 僕は連携できるのであれば,「何派」のセラピストでもいかなる補完代替医療家でもオーケーです。目的は被災者/支援者の支援で,僕も含めて自派の自己価値の担保ではありません。目に見えるものがすべてでもなければ,目にみえないものが根本的なわけでもない。それは目的と文脈によるのです。

 ミニマムに考えれば,部分的な連携で十分なのです。

 ですから,今後とも広い連携を詮索してはいきたいのですが,どうしても,カウンセラーには偏見を持ってしまいました。その確信の形成は,延々としたメールや,連絡の齟齬に由来します。原因はわかっていますから,乗り越えも可能と考えています。ですから,この偏見を打破するような出会いを望みます。

 この己とて,まだ未熟の身にてしらないことはおおく,すごい人は,世の中にいますから。

 無知の知の感度を,大切にしたいと思います。

 心理療法への批判も多いですが,繰り返しますが,役に立てばいいのですから。

 あっ,画像は妖怪「まっぴら」です。
 きっと,こいつにちょいとやられています。
 関係者諸君。笑ってくだされや。
posted by 甲田烈 at 16:59| Comment(0) | 非人称的アプローチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月03日

メタ理論と情動

 たとえば、朝起きてみてとてもすみわたった空を見た、としましょう。
 その日、一日、とても気分がよく過ごせました。満員電車でも座れ、タイミングよく会うべき人に会え、おまけに仕事まで舞い込み、プライヴェートまで充実した、とします。
 幸運続きの、一日。それはそれで、「ああ、楽しかった、こんな日もある」程度で、すめばいいのです。

 けれども、「朝、すみわたった空をみた」→「幸運な出来事の連鎖」という、因果関係を、その人が築きあげたとしたら、それは、「信念」となります。そして、その人は、また同じすみわたった空を見たいと期待し、「すみわたった空を見ることで幸運になれる」という信念を強化することでしょう。

 そんな人が、すみわたった空を見ても、平々凡々たる一日を過ごし、そしてまた、「すみわたった空を見ても、幸運とは関係ない/ありえないよ」という人とであったとしましょう。

 そうすると、お互いの「信念」を披瀝しあい、言い争いにまで発展した上に、互いに「こんなわからずや、もう話すもんか」と、相互不干渉に陥る可能性があります。

 「すみわたった青空」がもたらす幸運の物語は、極端な例です。しかし、人はおうおうにして、経験とそれにより触発される情動から「信念」を形成し、そこから「信念対立」に陥る傾向があります。

 ところで、異なる認識論・世界観を柔軟に、目的に応じて使い分ける、超認識論を、メタ理論といいます。
 僕が、専門的研究のひとつとして、取り組んでいるものです。

 しかし、これまで提示されてきたメタ理論は、学問的領域で発展してきたため、必ずしも、「現場」におこる信念対立を理論ペースで解消・低減する理路を開いたとしても、感情的反応や情動に由来する「わだかまり」を解消・低減する理路までは提示できていなかったように思います。

 メタ理論のようなことを考えるためには、異なる認識論・世界観に由来する対立を、なんとか低減し、実りある対話や共同作業を構築したいという、動機があるように思われます。その動機の中には、人生経験における、「わかりあえる」ことの喜びや、「行き違い」の哀しみといったことも堆積していることでしょう。

 それがためか、メタ理論の提唱者・実践家は、他者や自分が持つ世界観という「前提」に対して、きわめてセンシティブです。そして、自らにおける思考や感情の志向性についても、繊細に感知しています。それは、メタ実践といえるものでしょう。

 メタ理論を理路として提示しただけでは、「わだかまり」は解消されません(その可能性は相対的に高まることはたしかとしても)。
 ですから、メタ実践も方法論的に可視化したメタ理論が求められるように、考えられるのです。

 そこで、ひとつ注目しておきたいのが、臨床心理学における「脱同一化」という技法です。
 イタリアの精神科医であるアサジョーリによって開発されたこの技法は、身体感覚・感情・意志・思考・自己アイデンティティを順番に検討し、「これは〈私〉ではない」と、距離をとっていくことです。それはなにも、身体感覚〜思考を否定することではありません。○○と感じ、考えられているということと、「自分」を一体のものとせず、ゆっくりとスペースをおいて、その思われ、現れているがままに認めていく姿勢です。それは、近年、ポジティブ心理学や第三世代認知療法の領域において、また仏教心理学の展開において着目されているマインドフルネスのエッセンスとも、言えるものです。

 脱同一化の過程で、自らの「信念」が、どのような経験と情動の結合によって生成され、「意志」や「思考」という「信念体系」として形成されたのか、その「構造」を仮説的に本質観取できることも、あります。そうすると、「信念」と、それを語る「私」に距離がとれ、他者と理解しあうための「場」が開かれるのです。

 こんなことを考えたのは、「わかりあえない、困ったちゃん」と出会い、どうしたものかとと思ったからです。
 僕が対話を試みて深く感じたことは、彼の「信念」は、その経験の熟成から由来していて、それなりの必然性があるということです。しかし同時にそれは、彼本人とあまりに同一化してしまっているがために、そのテーブルで討議されている共通の課題に対処するには、あまりにも近視眼的にしか作用しないということでした。

 そうしたとき、理路をいくら提示しても、無駄だと思わざるを得ませんでした。他者との心地いい距離を担保するたるめに、敬して遠ざく、というのは、社会的ルールとしては、ありです。
 
 でも、それと同時に、メタ理論にはメタ実践の組み合わせが必要なのではないかという、貴重な課題もいただいた気がしました。
 
 僕たちは、日々、「臨生」現場にいます。
 ですから、学問的にだけでなく、日常にも活かせる哲学的実践も、あってよいと思うのです。
posted by 甲田烈 at 01:14| Comment(0) | 非人称的アプローチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする