2012年10月09日

 突然ですが、ネットラジオに出演します!

 秋に入り、だいぶ過ごしやすくなってきました。
 突然ですが、なんと明日、畏友のカウンセラー・ふたこわたる(http://windshamanwf.blog34.fc2.com/)さんがこの曜日のパーソナリティをつとめられるネットラジオ「珠帆印のねとらじ・蝶のはばたき」に出演させていただくことになりました。
 ふたこさんとは、10月10日に一般書店にも並ぶ予定の尾崎真奈美編『ポジティブ心理学再考』(http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=894)分担執筆の仕事でご一緒させていただきました。けれどもう7〜8年前、都内のこれもまた不思議な茶室で知り合っていらいはや数年、懇意にさせていただいております。
 最近、二子さんと折にふれ対話するのが「予祝」について。
 今・この瞬間をふまえつつ、未来を祝い生きるということ。
 そのあたりのことを、ふだんから取り組んでいる哲学・心理学・妖怪研究の知見もふまえつつ、視聴者の方ともやりとりさせていただければ、と考えています。
 風使いとメタ理論使い、どうなりますことやら、今から愉しみです。
 是非、お聴きいただければと思います。

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10月10日(水) 蝶の羽ばたき

ゲスト:甲田烈さん
哲学者、妖怪研究家、相模女子大学非常勤講師


今回のゲストは、哲学者で妖怪研究家の甲田烈さん。
僕の知り合いの中でももっとも博識でスーパー頭がいい一人です。

哲学者で、妖怪の研究などもされていて、
そうでありながら、強烈なキャラクターで女子大でも人気の
何ともいえない魅力に満ちている人。

今回は妖怪の研究(フィールドワーク?を含む)のお話や、
最近、研究されている「予祝」のお話を伺います。

予祝というのは、甲田さんのFacebookのノートによると
文字どおり、なにか良きことを起こる前に、予めいわい祝福することです。
https://www.facebook.com/retsu.koda/posts/354311694660466

「 反対運動や、抗議といったものは、異議申し立てが
社会問題を可視化するという捉え方をすれば重要であり、
それにはそのための場所があります。
 ただ、僕はなにかに反対したり抗議をする、ということが、
自己完結してはならないと思っています。

 たとえ抗議の声をあげる場合でさえ、もしその先の信ずる
未来方向から考え、かつ「今」を充足させるということがなければ、
あらゆる抗議は、それをなす者たちのこころの中に深い分裂を造り出し、
ひいてはそれは信念対立のような形で、たいせつな友人や家族、
仲間たちとの間で分裂をつくりだしてしまいます。
また、ではどんな未来が望ましいのか、人から与えられたスローガンではなく、
自分たちは、ほんとうにどういう人生を送り、
未来の人たちにそれを手渡していきたいのか、
そうした問いを積極的に問うという契機にもなりにくいところがあります。

 「予祝」行動は、「抗議」行動では、ありません。
 むしろありうべき未来をしっかりと「今」に立ちつつ選び、予め祝っていくことです。」


面白そうではありませんか。

時間になったら是非お聞き下さい!


http://therapist-jp.com/


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パーソナリティ ふたこわたる

風使いの小屋 代表
工学博士。カウンセラー/経営コンサルタント。
一人一人が、今の時代の地球に生まれてきた意味を全うし、
本当にいい人生だった、と思えるような生き方をするのを
お手伝いしています。
地球に幸せを広めるカウンセラー養成講座や、
ネイティブアメリカンの智慧を伝える自然体験のワークショップ
など現在の地球に生きることを満喫するための企画に
多数携わっています。

(ブログ)
http://windshamanwf.blog34.fc2.com/

(珠帆印殿堂入りセラピスト紹介)
http://therapist-jp.com/modules/pico2/index.php?content_id=4

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風使いの小屋


今後の予定

10月14日(日) アニマルコミュニケーション初級セミナー
   講師:伊勢みゆきさん
http://windshamanwf.blog34.fc2.com/blog-entry-348.html

10月20日(土)21日(日) 森のハーモニー三浦「地球の遊び方」
http://ameblo.jp/mika-smile-healing/entry-11344108689.html

12月1日(土)2日(日) 森のハーモニー三浦

12月14日(金) セラピストのための収益構造講座 札幌

12月15日(土) 詳細未定 札幌
posted by 甲田烈 at 17:55| Comment(0) | 非人称的アプローチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月02日

三人称の幸福


 知人のセミナー講師が、Blogにこんな記事を書いている。これによると、幸せな人は9年あまりも長生きするとか。
http://ameblo.jp/mayumi-naruse/entry-11124438505.html
 また、主観的幸福感(自分が幸せだと感じること)が寿命にどのような影響を与えるのか、昨年にはこんな記事も見つけたことがあった。
http://www.hbrweb.jp/news/1283

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 とりわけ、ポジティブ心理学という、自然科学をベーストした心理学領域において、こうした研究結果は注目されており、また各種研修にも取り入れられている。そして、この領域の邦訳書を読むと、ある「生き方」の勧めが説かれている。それは「実験結果が○○である」ということと、任意の「生き方は○○」ということが、直結しているような感じだ。

 少し古典的な哲学の話だが、「事実から当為は導けない」という命題がある。どういうことかというと、たとえば、「早起きが長寿に寄与した」という統計データがあったとして、そこから即「だからみんな早起きしろ」ということにはならないということだ。なぜならば、前者は自然科学的手続きに基づく「事実」であって、「良い」とか「悪い」は価値の領域、だから各人の好きにまかされるものだということだ。

 けれども、どうだろうか。私たちは日々の暮らしでも、また上のような記事をみて、事実から当為を導いてはいないだろうか。それはいったい、どういう事態なのだろうか。事実から当為を導くことは、可能なのではないか。

 この「事実から当為は導けない」ということは、新カント派が考えた。周知のように、カントは真(科学)・善(道徳)・美(芸術)の領域を差異化したと言われている。これは換言すると三人称・二人称・一人称となる。三人称は客観的な領域、二人称は共同体における合意の領域、そして一人称は誠実性の領域である。すでにしてニュートンの登場をみて、現代では自然科学と呼ばれる領域の目覚ましい進展の予感を抱いたカントは、自然科学を独自の領域として基礎づけようとした。そして、新カント派の時代に、すでに自然科学は飛躍的な発展を遂げていた。そのとき、新カント派が編み出したのは、「記述」と「規範」の領域を分節することだった。自然科学は実験によって「事実」を「記述」するのに対して、哲学とか人文科学は「規範」という「価値」の領域を扱う。そんなふうに役割が違うわけだから、ごっちゃにしてはいけない、と。

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 ところで、大学院時代の終わりころからポストモダンの思想の洗礼を受けていた私はーー哲学領域で他流試合しようとすると、こうした素養は必須だったーー、「科学」でさえ、ローカルな知の領域のひとつでしかないということを、素朴に考えていた。とりわけ、仏教学や京都学派の宗教哲学の研究を通して、ポストモダンを知る以前にすでに「科学」は相対化できており、正直いって科学=知の一領域、という理解のしかたは、「何をあたりまえなことを」と思うくらいだった。

 ところが、「ポストモダン」というのも、様々な意匠(小林秀雄)のひとつだったのではないかと、最近は思っている。驚くことに、さる自然科学系の平和心理学をやっているある方に接したとき「科学は記述、哲学は規範」という言葉を聞いたからだ。そしてそういう彼自身の「てつがく」を彼自身は疑っていないようだった。そのときの激しい違和感は忘れられない。心理学では素養の1つとして哲学や認識論をやらないのかと思った。

 私が、「非人称」というとき、それは方法論的な概念である。つまりそこには、カント以降、ポストモダン以降に「無」や「空」についてどう考えるかという問題意識が入っている。そこで探求の底板として方法的に「現象」をすえる。この「現象」とは、立ち現れているすべてのことなのだから、こう今語っている「私」も含め、夢も幻覚も霊的経験もすべてがそこに含まれる。しかし「現象」には一人称・二人称・三人称的として特徴づけられる「現れ方」がある。この各人称の側からしたら、「現象」は「非人称」だ。そしてこの「現象」をすえて、当座の目的と文脈にあわせて、一・二・三の人称的「視点」を自在に使い分けられればいい。「非人称的アプローチ」とは、そういうことだ。こういうと難しいけれど、私たちは普段の日常生活でそれをやっている。たとえば、相手によって人称を使い分けるという日本語の特質はそうであるし、よく「無宗教」と言われるような価値の組み合わせもそうだ。日本文化自体、「合わせ」とか「重ね」の側面を持つ。そしてその根底には余白と機能美の探求がある。こうしたことを、丸ごと「方法」として自覚化できないかと思ったのだ。

 ところが、自然科学ベースの心理学者に言わせると、「非人称的アプローチ」は難しいという。なんで難しいと思うのか、年末のつい先頃まで、わからずミカンたべながら考えていた。そして、「はっ」と思った。「あまりに、あたりまえすぎる」からではないか。あたりまえすぎることはあたりまえなので関心は湧かないし、なに0あたりまえのことをそんなに難しく言おうとするのかと思いやすい。そして、問いの立て方の必然性が了解されなければ、面白いとも思わない。

 非人称がなぜわかりにくいか。そのヒントは、一人称と三人称の表裏一体性にある。

 インテグラル理論のような、カントもしくは新カント派的問題圏から離れ、ようやくそのことに思い至った。その手がかりとなったのは、M.ポランニーの『個人的知識』におけるつぎのような科学論である。
 長いけれど、面白いので引用してみる。



 「天文学的観測は天文学的理論への棲み込みによってなされ、この天文学の内部的享受こそが天文学者をして星辰に興味を持たせるところのものなのだ。これが科学的価値の内部からの観照の仕方である。しかし、この歓喜の意識は、天文学の定式が経常的な仕方で利用されるようになると薄められてしまう。天文学者は、天文学の理論的ヴィジョンを省察し、あるいはその知的な力を自覚的に経験しているそのときにのみ、彼は天文学を観照しているのだと言い得るのである。数学についても同様である。一方における陳腐に演習の実行と、他方における孤独な発見者の発展的ヴィジョンーーこの二つの間に確立された数学の主要領域があるのであり、数学者はその偉大さの観照の中に自分を失うことによって自覚的にこれを熟慮するのである。科学と数学の真の理解は、それらの観照的経験の能力を含み、これらの科学の教授は、この能力の生徒への分与を目標としなければならないのだ。音楽と劇場空間の知能的観照の誘導という課題もまた同じく個人をして芸術作品に対して自らを投げだすことを得さしめるのを課題としている」(マイケル・ポラニー・長尾史郎訳『個人的知識』、p, 182-183)。

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 ここで天文学や数学を「心理学」と置き換えても通じるだろう。心理学者は実験対象としての「心理」に没入し、内部からそれを観照する。それは芸術作品にたいして自らを投げだすことと同様である。換言すれば、三人称(それ)へと一人称(私)を投げだすことによって、非人称的な「自覚的な熟慮」を達成するのである。そうだとすれば、事改めて「非人称」と言わずとも、「なんだ、三人称を徹底させればいいじゃないか」ということになる。ポランニーは「偉大なる科学理論の主張とは、部分的な歓喜の表現である」と別の箇所で述べている。

 さらに、日本的な事情もそこには関係するだろう。実は三つの価値領域の差異化とは、西洋の話だ。日本では“Science”が「理学」もしくは「科学」として輸入されたのは明治時代、それ以前は「技芸」の発達はあり、本草学や唐繰などを通して、自然(しぜん)と自然(じねん)の重なりは成し遂げられていた。日本人にとって自然(しぜん)の秩序を解明することは、自然(じねん)につながる。その感性は、どのように西洋化された暮らしにおいても底流に継承されている。しばしぱ非難される学問の徒弟制が廃れないのも、一人称としての「私」を没して、三人称(それ)へと成りきること、「それ」に沿う事が、無自覚的な「哲学」だったかららである。今、教育論的なその当否はおこう。要点は、一人称から三人称へ抜けて、非人称を達成するというありかたが「あたりまえ」だということである。

 これは、いわゆる西洋合理主義批判や科学主義批判によっては、理解しえない事態である。日本人は「科学主義者」ではない。「それ」主義なのである。そのため、事改めて「それ」を疑う事は自然的態度からして理解に苦しむことになる。
 さらに言ってしまうと、面白いことに三人称主語の英語のそれ(it)は、日本語の「物」でもある。そしてこの「物」は三人称的な眼前の「物体」を指すこともあれば、「物の怪」や「物思い」のように、一人称的な心的領域を指すこともある。「モノ」においても、このように一人称と三人称は表裏一体的であり、反転可能である。

 長い旅をしてきた。
 さて、なぜ、「事実から当為を導きだせるのか」という問いに戻る。それは、事実(三人称・それ・物)が、すでにして一人称(私)を没するという仕方で、価値の実現をしていると感じられるからである。三人称において「自覚的な熟慮」をなしえているか、もしくはその経験をたとえかすかでもしている科学者は、自身の扱う「事実」が「価値」だということを疑わない。そして読み手も自然的態度でいるかぎり、それが自然(しぜん/じねん)なのだと信じて疑わない。

 ここで、しかし盲点となっているのは二人称領域であることには留意しておきたい。たとえば原発や沖縄の問題などは、合意不全の問題なのである。けれども、ここにも二人称が三人称化されるという「あたりまえ」の罠があることは、稿をあらためて指摘する。

 お開きに、小話をしておく。
 『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』には有名な「汝はそれなり(tat tvam asi)」という聖句がある。
 ここでいう「それ」(tat)とは絶対者のことを指す。つまり、非人格的(非人称的)な絶対者が、三人称的にしめされているのである。英語でいうと“that”である。私たちは、三人称(it)をさらに深く超えて非人称(that)に行けるだろうか。「自然」や「物」になりきるというとき、それは成りきるという仕方において、実は「あれ」(that)の現成なのではないか。さて、しかし英語的には「that」は指示代名詞なのだった。

 今後、自然科学者のみなさんには、「ええ、みなさんは十分に人でなし(非人称)で・・」と説明することにしよう。
 
 三人称、「物」になりきることは、たしかに「自然」と一致する幸せである。

 でも、自然科学者が「事実」を示すというとき、どこ、指さしているのですか?

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posted by 甲田烈 at 14:14| Comment(0) | 非人称的アプローチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月01日

 信念開けましておめでとうございます

 

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 新年あけましておめでとうございます。
 今年もみなさまにとって、幸に満たされた一年となるよう、予祝いたします。

 さて、「新年」と「信念」。「明けまして」と「開けまして」をかけてみました。
 昨年は、従来の社会や政治を支えていたような「信念」がひっくりかえるような年でした。
 「信念体系」というものは、個人や組織の長い来歴の中に生じてくるもので、それは「記憶との同一化」を住処にしていると言えます。私たちは、なんの疑問もなく、昨日の自分と今日の自分を同一の「自分」だと思っていますし、今日と同じような明日が続くものと信じ込んでいます。そして、世界が私たちに無条件に微笑みかけてきていると確信しておればこそ、自身の「信念」にも無自覚でいられるのです。

 ところが、昨年に起こったことは、そういう安逸をむさぼることを許さない出来事でした。
 個々人の「意味付け」や「価値づけ」はどうであれ、日常の生の基盤が意外と脆いものであり、私たちのなにげない日常が実は奇蹟的なことの連続であることを、瞬時であれ、深々と残る自覚としてであれ、気づかされた人は多かったのではないでしょうか。

 今年の東京は、震度4の地震であけました。
 国内の政治や北朝鮮、欧州通貨の崩壊要因など、物騒な予測もささやかれています。

 しかしながら、私たちはもう、日常という基盤がそれほどにたしかではないということを「知って」しまっています。そのような中で、自分の本当にやりたいことや、つきあいたい人など、優先順位をつけるとともに、今までよりも、むしろ日々の呼吸する空気に新鮮さを覚え、この自分や家族、他者の存在をありえないこととしてた素直に受け取りつつ、日々のことはそれとしてこなす、そんな生き方に、移行しているような気がしています。私事、私も今年は、研究や表現に専念したいと思っていますし、もしかしたら生涯の伴侶のことも、考えるかもしれません(笑)

 さて、「在る」ということ。
 あたりまえのことが「在る」ということは、一体どういうことでしょうか。
 私たちは、さまざまな人生計画を持ちますし、未来に向けて、そしてたった今でも、「する」ことばかりに気をとられています。掃除をする、洗濯をする、考え事をする、テレビを見る、妄想する、猫とじゃれる、など。
 けれども、それをしている「あなた」とは一体誰なのでしょう? そこに「あなた」という存在があって、はじめて他のことが可能になります。たとえば、サッカーをするのに、誰もいなければ、そもそも「する」ことができません。そうだとすれば、「する」ということの手前には、「在る」ということがあるのではないでしょうか。持ち物、人間関係、「私」というセルフイメージは、それがそうと意識的に対象化できる(それと客観視できる)のですから、「あなた」ではありません。では、「あなた」とは誰なのでしょう。

 そして、もし、「在る」ということから、「する」ということを起こすことができれば、軸がぶれることがないでしょう。なぜなら、「する」以前に「在る」のですから、「しよう」が変わろうが「できなく」なろうが、「うまく/下手に、できよう」が、「在る」ということは取り除かれないからです。

 本当の願いというものは、この「在る」から生まれてきます。それが、その人の、他者からみたらたぶんどうしようもない尊厳を生きるということです。たがいに「在る」ということを認め合えたとき、「する」関係とは別なところで、「絆」が深まります。「する」世界においては、得意不得意、巧拙、適切不適切、才能の有無がかかわります。けれども、誰でも誰かである以前に「在る」のですから、「在る」は平等です。

 この「在る」にふれたうえで、「する」ことを、してみること。
 ふだんは無自覚な「在る」に驚いてみること。
 私たちが自身の生死を深めるためには、そんな通り道もあっていいのかもしれません。
 今までの「常識」が疑われているという時代は、考えてみたら、とても愉快な時代に生まれついたともいえます。しかも、私たちは死ぬまでは生きています。

 一休に、こんなエピソードがあります。
 正月でにぎわう町中。一休は墓場から髑髏を持ってきて竹の先に刺し、家の門に「にょこにょこ」とそれをさしだしたというのです。その理由を問われた一休はこんなふうに答えます。

 「これを見よや、目出たる穴のみ残しをば、めでたしと言うなるぞ。......昨日と同じように今日も暮らしているのか、明日のことわからぬから用心せよというのだ」。

 昨日と今日とは同じではありません。
 一度つちかった「信念」も、めでたく開かれていきます。
 私たちは、いつも未知の途上にいるのです。そして、それはとても新鮮です。
 愉しい一年を。

 信念開けましておめでとうございます。

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posted by 甲田烈 at 22:52| Comment(0) | 非人称的アプローチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする