2013年10月17日

珠帆印inねとらじ、の放送音源です

 昨日、珠帆美汐さんの「珠帆印inねとらじ」に出演させていただいたのですが、こちらから放送内容を聞くことができます。アイヌの妖怪「パウチ」については引き続き情報を求めております。
 妖怪とエロス、哲学、11月の第3週からパーソナリティをつとめさせていただく「妖怪ラヂオ」について語っています。関心のある方は聴いてみてください。
http://therapist-jp.com/modules/webphoto/index.php?fct=photo&photo_id=220
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2013年05月02日

『意識のスペクトル』に還り、始める

 昨日、複数の知人たちのFBや学会MLから、吉福伸逸氏が亡くなられたことを知った。
 C+Fの諸活動から、トランスパーソナル心理学に関する質の高い入門書、そしてグロフ、ウィルバー等の翻訳(共訳含む)やSENの活動まで、氏の功績ははかりしれない。

 とはいえ、臨床家ではない私は、生前氏に一度もお会いしたことがない。もっぱら上記の著訳書を通して、学びつづけてきた者である。

 高校3年次に「アメリカ文化史」という選択科目でウィルバーの存在を知り、まずすぐに手にとったのは吉福氏の『トランスパーソナルとは何か』だった。インド哲学専攻の中で玉城康四郎の仕事に触れ、比較哲学の可能性を詮索していた当時の私にとっては、とても衝撃的だった。インド学・仏教学のベースは古典文献学である。また、宗学はあるが、同時代の諸科学・思想との対話という気風はあまり強くはない。そこでは、研究者の体験や主体的関心というより、原典の着実精細な(宇井伯寿)読解や歴史的研究が重視される。そうした中で、自らの実存的関心や、同時代の哲学的諸課題との対決・対話が必要と感じていた私には、東西宗教の古典を相手にしながらも、実存的探求も両立させ、かつそれを「学問」として成立させうるということは、飢える中で水に出会ったようなものだったのである。これで「方法」を手にしたと直観した。

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 早速、ウィルバーの『意識のスペクトル』も読んでみた。何度も読み返してよれよれになったこの翻訳書は、まだ机邊にある。
 周知のとおり、現在、ウィルバーはWilber-Phase5という自己把握の下、インテグラル理論を展開しており、この初期の著作については「ロマン主義的であった」と辛い自己評価をしている。たしかに『意識のスペクトル』における、とりわけ東洋思想の古典の引用は漢文やサンスクリット原典に依拠せず、ウパニシャッドはHumeの翻訳によるし、禅の典籍の多くは鈴木大拙からの重引、中観派の解釈はMurtiにひきずられすぎており、文献学者として読むのならば、お話にならない。類似の問題意識を抱いていた井筒俊彦に比すれば、クオリティに雲泥の差がある。しかしその後の著作に比すると、古典の原典そのものに、たとえ翻訳を通してでも立ち返り、そこから思索を立ち上げるという気迫を感ずることができる。

 それだけではない。
 ウィルバー理論の基幹線は、私はこの著作以降、変わっていないと思うのだ。それは、コミュニケーションのモデルとしてのメタ理論構築への衝動であり、それを支える自己観照の強度である。およそある著作の書き手自体が、もっとも自己の著作の良き理解者とは限らない。その意味でいえば、ウィルバーの自己理解にひきずられて『意識のスペクトル』を過去の古典として葬るのではなく、創造的に解釈する途もあると思うのだ。意識のスペクトルとは、異領域の人々が各自の学範・理論・関心をふまえつつ超え、対話を推進するためのメタ理論なのである。

 「ひとまずここで意識を一つのスペクトルとみなすとするなら、次のような予想ができはしないだろうか。意識のさまざまな探求者たち、とりわけ一般に「東洋的」と呼ばれている人たちと「西洋的」と呼ばれている人たちは、互いに異なった言語、異なった方法論、異なった論理を用いているため、初期の放射線科学者たちがまちまちの電磁スペクトルの帯域にのめりこんでいたように、意識スペクトルの別個の帯域、ないし振動レベルに「接続」しているのではあるまいかと。また、このようにも予想できよう。「東洋」と「西洋」の意識の探求者たちは、自分たちが全員、まったく同一のスペクトルの異なった帯域、あるいはレベルにのめりこんでいることに気づいていない。その結果、研究者同士のコミュニケーションが、ことのほか難しく、ときには敵対することさえありうると。それぞれの探求者は自らの関わっているレベルについて語る限り正しい。だからこそ、違うレベルを扱っているほかの探求者たちが、ことごとく誤っているように見えるのだ(『意識のスペクトル』[1]、5ページ)。

 「本書を通じ、意識が一つのスペクトル、あるいは数多くの帯域ないし振動レベルからなるものとして言及される場合、その意味はあくまで比喩的なものである。正確には、意識はスペクトルではない。が、コミュニケーションや研究のために、意識を一つのスペクトルと取り扱うことには、大いに意義がある。要するに、われわれは科学的な意味で一つの雛型を創っているのだ。それは、酵素の動力学のミハエリス・メンテンの模型、原子核の八重項模型、視紅の光異性化に基づく視覚的興奮の模型と似たものである(同上、8ページ)。

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 ここでは、すでに明確にWilber-Phase4以降に強調される「全ては正しいが、部分的である」という理路が見られる。また、しばしばトランスパーソナル好きにも「実体」として捉えられがちなのだが、「意識のスペクトル」は、あくまで多様な学範、実践者たちがコミュニケーションを行なうという目的と関わり編み出された「モデル」であることが自覚化されている。むろん、先に述べたように、ウィルバーはこの自身の初期モデルに不満足であった。そこでは前個と超個は識別されておらず、個的領域と集合的領域も差異化されていない。また、「意識」について語ることはアナロジーを必要とするにもせよ、「電磁スペクトル」という物理学から転用したそれは妥当性があったのだろうか。こうしたことはウィルバーが問い返しているところである。
 しかしながら、理論モデルが一つのアナロジーによる構造化であることを銘記することと、その具体的表象の不適切性を認識することは位相が異なる。前者の可能性が担保されていれば、後者は検証への可能性が開かれることになる。実際、ウィルバーが歩んだのもそうした途であろう。つまり、東西思想・宗教について多様な領域の交流のための基礎づけとして、アナロジーを用いるということ自体は、理論としての深度は高いのである。また、「意識のスペクトル」というアナロジーについては、時を隔てて洞窟壁画に関する認知考古学的な研究においても用いられており、汎用性のある可能性も否定はできない。少なくとも再検討の余地はあるのである。
 
 いささか局外からすれば理論の枝葉末節にわたり、また吉福氏の話からもずれてしまったように見えるかもしれない。けれども、人は見たいものしか見ない、ということは、なにも「意識」の探求者に限らず、われわれが日常で体験することであるし、そうであるがゆえに、悟りきって執着から完全に脱却はできないとしても、自他の欲求や関心を相対化できる可能性をどこかで確保したうえで、より多くの人々と、より建設的な人生観・世界観を創りあげていく試みというのは、誰もがおおかれすくなかれ必要とするものではないだろうか。

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 そしてそうした意味でも、まだ東洋思想の専門家たちや、わが国の諸宗教の実践者たちが誰も着目していない時代に、ウィルバーの哲学に価値を見いだした吉福氏の慧眼には、感服できるのである。吉福氏は『トランスパーソナルとは何か』の中で、再三にわたり、日本の宗派の閉鎖性に警鐘をならし、そして文献学と実践との両立の可能性を示唆していた。少なくとも理論研究に携わる者として、そのことばは素直に諾うことができるし、それは単なる規制学問の批判とは位相を異にする「批評」なのである。

 吉福氏が他の数名と訳したウィルバーの著作は主にPhase3までであり、以降は、これも故人となられた松永太郎氏が行なっていた。
 
 今、私は思うのだ。
 『意識のスペクトル』に還り、そこから始めてみたい、と。
 それが、トランスパーソナル・コミュニティの大きな時代を築いた故人を批判的に継承していくことに、つながるのではないかと。


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2012年11月09日

言葉をめぐる断章

 ■最近、ありがたいことに、異なる機会に、「言葉」の意味について考え直すきっかけをいただいている。ひとつは、私が使う言葉と、受け取り手においてかなり言葉の「意味」が違うらしく、そこに気をつけないと誤解されるというご指摘。そしてもう一つは、そも言葉とは何か、という吟味がされず前提となっているということ。

 ■どうも最近、自身の使う言葉が浅い方向に流れがちではあったので、ここで言葉について考え直してみたい。
 たとえていえば、言葉とは沖縄の民俗で知られている、ある成長する石のようなものだと私は考えている。これは育っていくこともあれば、弱ることもある。不思議なことに、言葉における共通了解を吟味しないほうが言葉は通じる。これはどういうことかというと、「沈黙」からでる言葉ということである。

 ■言葉とは何か。断案を下すことはできないが、ほぼこれで間違いなかろうと思うのは、世界を創るものだということである。これはもっとおとなしく「分節」ということもできる。その分節は、言葉がなくてもできるのだが、なぜ言葉かといえば、それは経験を進行させるか深めるときに寄与するその度合いにしたがってのことなのである。よって、たとえば記号としての言葉の理解から言霊的な言葉の理解まで、誤りとは言えない。しかし言葉が最もその生命に近づくのは、言霊的な言葉かそれを通り越した「沈黙」にたどりつき、そこから発せられるときである。

 ■突拍子もまたまたない話になりかけるのでエピソードをいれよう。いわゆる言語障害者たちと社会的には言われる者同士のコミュニケーションを観察してみるとよい。あれはあれで、実は意味の疎通が成立しているのである。たとえば、身体が動かないときに遠くのものをとってもらいたいときや、ちょっと複雑なことを伝えたいときは、ちょっとそちらに意識を向ける、それだけで充分なのである。おそらく人は老いゆく中で、そういう質の言葉を獲得する。熟年老夫婦の会話も、かくやとばかりに。

 ■と、いうことで、実は私ははしから言葉とは二義的なものだと考えている。それをしかし第一義的に考え共通了解を目指すと、かえって通じないという悲喜劇を招く。それは言葉の性質にも由来していて、気にしてもしなくても言葉は通じるものだからであり、かえって気にすることが言葉の機能を阻むのである。
 ところで、はしから二義的といってもこれは重要度の低いということを意味しない。なぜならば、「沈黙」から言葉を出すということは、歴代聖者や詩人とおぼしく困難でもあるからだ。それは成熟した合理性(ことによるとそれを超えて)、無垢な子どもであることだからだ。おそらく人は、子どもに向けて老い、言葉を育てていくのである。

 ■さて、こう書くと学者先生は今度は納得はすまい。ちょっと言葉のことを学問してみる(もちろん厳密にではない)。構造主義科学論や井筒俊彦の哲学も噛み合わせよく考えると、言葉の機能とは動的分節にあると言えまいか。分節のコードは文化にり、そして業界で規定されている。そして実はそこに共通了解可能性がスライドしていくということは含意されているのである。こういうことはしかし動的関係規定性とすでに言われてもいる。では、「動的」とは何か。経験の進行なのである。たとえば、本質を言い当てる局面について考えてみよう。本質とは、それについて普段は知っていたとしても、うまくいいあらわされないものである。では、言葉によって本質を言い当てるときに何が起こるかといえば、経験の生起・照合という形で、言葉の意味が分節され変容されるのである(文学やカウンセリングの世界により妥当する)。またたとえば読書について考えてみよう。われわれがある本を理解するときとは、その本を身体に入れ体得するとき、言い換えればそこに書かれている思想や情景を自身の経験や志向と照合して自身の言葉に鋳直せたとき、あるいは、夢に出るくらいまでに著者との対話が成立したときではないか。私もまだまだなことが多いが、そうでなければ「言葉を使える」とは言わないのである。なぜならば、このように言葉を用いることができたときに、他者の経験を喚起しまた自他の経験を進行させることができるからである。

 ■自身の言葉の深度というより浅度について反省することで想起したのは、浅さというものは、「沈黙」に届きかつそこから発せられていないときにそれは浅くなることである。言い換えれば、可能な限り既存の分節から自由であり、理想的にいえば非分節的分節的に言葉を発せられるときである。
 さて、この言葉ははたして響くのだろうか。もし響くのだとすれば、それは対者の沈黙に達し経験の生起に寄与しているときであろう。もしそうでないとしたら、それはまだ記号の域にまでしか届いていない、つまりそこにはざわつきがあるのだ。

 一切を取り去れ、とは、ここでも言えることなのである。
posted by 甲田烈 at 11:22| Comment(0) | 非人称的アプローチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする