2016年12月04日

「西洋のヴェーダーンタ」を継ぐ者として:ウィルバー批判の後先

 先日、トランスパーソナル関係の2つの学会の合同大会に参加したときに感じたことは、先のBlogで書いた。
 実は、そのときにもう1つ、個人的にはたいへん刺激的な発表を聞いていた。ケン・ウィルバー(Ken Wilber, 1949- )および、彼が中心に提唱するインテグラル理論に基づく諸活動の現状についてである。
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 私がウィルバーの著作に触れたのは、高校2-3年次の「アメリカ文化史」という選択科目であり、その風変わりな内容は、グルジェフやシャーリー・マクレーン、バシャールなどといった多様なニューエイジや神秘思想の著作の抜粋を英語で読むというものだった。そうした中で紹介されたウィルバーは、ここに名前を挙げたような中では、理路がまともに見えた。まとも、というのは、学問的な手続きを抑えた上で、東西思想を綜合する一つのモデルを立ち上げようとしていることが伝わったからである。当時、すでに西田哲学や南方熊楠には触れていたが、どこかそれらと響きあうような、骨太な思想に思えた。早速、『意識のスペクトル』や『無境界』と読み進んだが、この時期のウィルバーが最も面白い、と個人的には今でも思っている。1211649._UY475_SS475_.jpg

 さて、少し時間が空いてーー大学院時代からトランスパーソナル関係の発表は始めていたがーー再びウィルバーを真面目に読んだのは東洋大学の東洋学研究所在籍の時代である。2000年代の初頭だが、この時期、日本トランスパーソナル心理学/精神医学会において、若手のシンポジストの一人として、ウィルバーを多角的に検討するという趣旨のものに参加した前後だった。この時にはすでにウィルバーは『進化の構造』において「インテグラル」という発想を前景化しており、The Collected Works of Ken Wilberという大部な8巻本の集成も刊行中であり、版元のShambhalaでは、オンラインで同時進行するウィルバーのインタビューや投稿された最新の論考を読むことができた。

 ただ、私はウィルバーの理路が著作を追うごとに精緻になり、かつ『進化の構造』においてそれまでにない規模の理論的地図を提示していることに感銘は受けつつも、インド哲学研究の視座からして、疑問点がなくはなかった。その一つは、彼が浄土教を中心とする庶民的な仏教や、インドにおけるヒンドゥー教改革運動の原動力の一つとなったバクティの流れについて、本質的な契機として対決していなかったことであり、もう一つは、現在でもたびたび妖怪論の文脈で強調するように、先住民の世界観や「民俗」ということについて、集合的な進化の低次の段階として以上に取り上げていないことだった。このことは「他界」観や専門的にはアストラル・レヴェルの諸存在について論じきれないという、小さくはない瑕疵をもたらしているように思われた。当時の発表の趣旨もそのようなものだった。

 さて、そのシンポジウムが終わり、懇親会の席上、一人の男性が私に話しかけてきた。なんでも、会場で自分のチャクラがぐるぐると回転しており、なんだろうと見回していたら、その会場の中で「わかっている」人がいるという、それがあなただった、というわけだ。「怪しいやつに話しかけられて困ったな。。」と直感したのは言うまでもない(笑) 私はあくまで思想史的研究の位置に禁欲してその場では話したのであり、自身の体験については語ったわけではないからだ。その語りかけてきた男性をKさんとしよう。Kさんはスピリチュアル・エマージェンーを体験しており、私より先にシンポジストのお一人であったH先生と交流があった。その気安さからでもあろう。濃い会話が通じると思ったらしい。Kさんは当時、占星術師として身を立てようと、全国を旅していた。その途上、何度かご一緒させていただくことにもなったから、縁とは奇妙なものである。

 Kさんは現在も占星術師として霊能をも併用した鑑定を行いながら後進を育成しており、自らの道に進んだことになる。彼を介して、そののち私は「13の月の暦」運動や、こちらは現在も交流が続いているヌーソロジーを知ったのだから、実存的関心を強く持ちつつ、半ば当時は文献学徒であった私には、新しい未知の領域に触れる機会をいただいたとも言える。そののち、Kさんと幾度か対話する中で、アカデミズムに対する辛辣な批判を聞くことがあった。それには首肯できるものも、反論することもあったが、約言していえば、「霊能」的領域が周辺化されてしまうということだった。つまり、非物質的存在との交流や、視える・聴こえると言うことは「ある」のだが、そうしたことが精神病理の枠にされるか、相手にされないという。こうした指摘は、のちに私がメタ理論へと関心を移していく上で、大きな刺激の一つになっている。

 さて、ここでKさんとの交流について長々と述べたのは、別に回顧談をするためではない。
 Kさんのそれ自体は舌足らずで直感的でもある疑義の中に、ウィルバーとどのように対峙するかという点に結びつく論点が示唆されているからだ。

 そのことに移る前に、2000年初頭以降の私のウィルバー読解の軌跡について述べておこう。2010年に入り、私は学会関係者の仲間のプロジェクトに加わり、インテグラル理論の入門書を書くことになった。それは後に『インテグラル理論入門T・U』(春秋社)としてまとめられることになったが、その途上、私は巻末のブックガイドのために、あのウィルバー集成やネット上に公開されていた"Kosmic Karma and Creativity"の草稿群、そして当時は新著であった" Integrl Spirituality"の読解に取り組んだ。気の遠くなるような作業だったが、なんとかまとめることができた。ただその時、「メインストリームに読まれるものにする」(つまりあまり霊性についてつまびらかに触れない)という共通の目標をメンバーと設定したため、とりわけ東西思想に関わる持論の部分は触れずにおいた。
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その当時、インテグラル理論は都市開発、環境、教育、ピジネスやコーチング、そしてもちろん宗教や霊性といった領域への広範な応用が期待され、ネット上にはウィルバーの個人サイトのみならず、"Integral Institute"や"Integral University"といったハブとなりそうな研究機関や大学の構想、"Integral Spiritual Centre"のような実践的プログラムをうたうWebsiteが次々に公開され、"Integral Ecology"のようなウィルバーに劣らない厚さの理論書も刊行されていた。そして、日本でも一部の人々にはウィルバーがメインストリームの思想家として再評価される機運にあった。

 ただ、そうしたことと著作の評価とは別であり、『インテグラル理論入門』は広範に読まれる形跡はそののちみられず、その関係の活動で仕事をする機会も持たなかったことや、震災を挟んで、予てから関心が深かった井上円了研究に重心を移し、とりわけポジティブ心理学におけるPTG(Posttraumatic Growth)や、超メタ理論として知られる構造構成主義を基盤にインテグラル理論の活用を構想した新しいメタ理論・メタ実践法としての「非人称的アプローチ」の開発などに研究関心が移行したので、本体のインテグラル運動の同時代的動向については、Webではなく、2010年代初頭までの英語の最新刊に目を通すこと以外、触れていなかったことになる(ただ、2013年頃に上述の"Integral"を唱導するWebsite にアクセスしようとしたところ、リンク切れとなっており、メンテナンス中なのだろうくらいに思ったことはある)。

 さて、ここでようやく冒頭に触れたインテグラル運動の「現状」に話を戻すことができる。
 ありていにいってそれは、2000年のシリコンバレーのバブル崩壊にともなって資金調達が困難になり、初期のウィルバーのプログラムを実現することが難しくなったため、インテグラルを冠とした諸活動については大幅に規模を縮小せざるをえなくなっていることや、ウィルバー本人ではないが、彼の連携者や協力者である非二元を説くAndrew Cohen、禅のGenpo Roshi、そしてユダヤ教のラビであるMarc Gafniによるコミュニティ内の暴力(abuse)に関するスキャンダルといったことを含む。ウィルバーに関する伝記的紹介や理路の検討として、おそらく最もすぐれている著作の一つである"Ken Wilber: Thought as Passion"の著者として知られるFrank Visserが、他ならぬ先鋭なウィルバー批判者となり、彼の主催するIntregral WorldというWebsite(http://www.integralworld.net/ )には、運動の実践面のみならず理路に立ち入った硬質なインテグラル理論への批判的検討をまとめて読むことができる。とりわけ、上にも少し触れたインテグラル運動の縮小傾向という現状面については、Visserによる次の論考(http://www.integralworld.net/visser75.html )が参考になる。

 さて、しかしながら私は、こうした三面記事にもなりそうなスキャンダルの側面としてのウィルバー批判にはあまり関心がない。もし、そうしたことがあるとすれば、それはウィルバーの「実務家」としての力量の問題であり、それよりも彼自身の理路に不徹底な点があったとかんがえるからだ。では、それはどういうものだろうか。

 ここで細かい議論はしないが、現在のウィルバー批判の諸動向も参照するならば、それは次の3点に要約できると思われる。これらの論点は相互に関連するが、論者の重点は異なる。

 1)インテグラル理論の理路としての整合性やメタ理論としての強度を問うもの。
 ここには、Visserのサイトに寄稿している多くの理論家や、我が国では増田満氏による「ウィルバー・コスモロジーの批判的洞察」(http://book.geocities.jp/fourquadrant2/ )といった労作に代表される。そして私の疑義も一部ここに含まれる。大づかみにその本質を言えば、たとえばウィルバーの部分/全体というホロン階層論が「価値」と「事実」の領域を混同しがちだということであり、このことと関わって、論理階型の異なる事象を無理に一つの図式にまとめてはいないかという疑義である。この大筋から、たとえばウィルバーのポストモダン解釈の妥当性やハードサイエンス領域の知見の不十全性といった個別の検討がなされる。ここにはまたインテグラル理論の「イデオロギー」化に対する懸念も含まれる。

 2)「他界」といった「意識」モデルに回収できない領域や、「精霊」といった非物質的存在の理解に関しての妥当性に直感的な疑問を持つもの。
 ここには、もしかしたら『意識のスペクトル』まではついてこれたかつての読者や、私の知人であるKさんのように「霊能」の領域に実践的・理論的に関心のある、通俗的な「スピリチュアル」や「秘教」に関心の深い者も含まれるかもしれない。そうした動向の特質として、命題レベルでの議論を展開することなく、直感的な疑義を提示するにとどまるため、学問論的には取り上げることが困難で、またその層とも交差しにくいという特質を持つ。しかしながら、中には数多くの著作を持つ菅原浩氏によるもの(http://reisei.way-nifty.com/spiritsoulbody/2006/05/post_124c.html )や、民俗学的観点や「マイヤーズ問題」といった心霊学に関わる領域にも真摯に取組んでいる津城寛文氏による『社会的宗教と他界的宗教の間』(世界思想社、2011年)のように学問的なものもある。
 しかしその多くは先述したように、直感的なものであり、たとえばTeru Sun氏のスピリチュアル・ラボにおける一記事(http://teruterulog.jugem.jp/?eid=659 )のようなものである。インテグラル理論には「密教的側面が欠け」(Teru Sun)ており、「この人には霊的知覚力があまりないのではないか」(菅原浩)ことをあげれば、その雰囲気は掴めると思う。ウィルバーは禅やヴェーダーンタといった「顕教」に依拠したため、霊的な「中間世界」の諸事象についてあまり詳しくなく、結果的にそれが理路の欠陥につながっているのではないかということである。こうした観点は、ウィルバーに比して空海を称揚するといった、やはりヒーラーなどに多いwitter上のつぶやきからも散見される。

 この2)の論点についても、かなり同意できるところと、そうでないところがある。
 前のBlog記事にも触れたが、ウィルバーはかなり無自覚的に社会進化論的傾向のある視点を人類の集合的「進化」を説く時に枠組みとして用いるため、たとえば呪術より宗教が高度な発達を遂げているように描く。また、トランスパーソナル領域を「個」の成熟の上位に置くため、下位の「霊的」次元を上手に説明て゜気ないところもある。しかしたとえばタイの仏教僧はピー(精霊)とコンタクトする呪術師と、自身の心の苦悩からの解放を職掌することの棲み分けを行うと同時にピーの「存在」を認め、『大乗起信論』のような理論書にも「魔」の記述があり、修験道では仏教でありながら山々の神々に感謝を捧げて法螺貝を吹くといった事例が示すように、中間的な「霊的」存在(と確信される事象)との関わりは実践的には避けられない。こうしたことは、西洋化されたマインドフルネスや禅にはうかがい知れない領域ではある。

 しかし他方、こうした「霊能」の自覚は多くの場合、生来の傾向や行に基づきながらも、不安定であり、一定していない。また、自身の視え・聴こえる対象について無条件に外部に「実在」すると感じてしまう傾向にある。感覚と解釈の間に隙間がないのだ。そのため、私がしばしば超感覚的素朴実在論と呼ぶように、「目の前にあるからあるのだ」という素朴実在論と同様の形式になってしまう。また、そこには検証・継承可能性が低いという問題もある。客観的な検証は自然科学的な事象ではないために必要がないかもしれないが、例えば一一定の期間○○というアプローチを試せば△△という事象への了解が高まる、といったような、公共性に開かれた行の形態も少ない。そのため結果としてこれは「守護尊」との契約や個人の信心といった事柄となりやすく、また密室的な共同体に関わるさまざまな問題も惹起する可能性を否定できない。学問的な議論は極めてしにくくなる。

 けれど、強調しておきたいことは、この2)の視点は民俗宗教における救いや庶民レベルの信仰と接続していく論点があり、重要な問題提起であることには変わりがないということだ。

 3)インド哲学・宗教哲学的観点から、その理論の更新可能性と解釈の妥当性を問うもの。
 この3)については、一部のインドにおけるオーロビンド研究者からのもの以外、あまり見ることはできないが、私の主要な論点はここにあり、若手シンポの席でもかつて強調したことだった。

 この点も簡略にまとめたいが、まず私がウィルバーを高く評価し、また継承するに値するとかんがえる一つのポイントを述べておこう。
 それは、西洋のヴェーダーンタ(Western Vedanta)としてである。
 この言葉は『進化の構造』で用いられ、ウィルバーはアウグスティヌス、デカルト、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、フッサール、サルトルの名をあげる。それはどういうことかというと、「哲学ないし知的な意識がその源泉へと眼を向ける(すなわち主観性ないし純粋な自己を目撃する)」(『統合心理学への道』、p.493)ことである。この時、源泉を志向する哲学はジュニャーナ・ヨーガへと移行する、とウィルバーはすぐに続ける。ただしそれは西洋では滅多に現れず、再生可能な行的形態を持たない。しかしそれが一度現れると、非常に深遠なものになる、とも。

 ウィルバーのこうした主張は、彼の最初期の著作から一貫している。そして彼はしばしば、精緻な理路の頭脳的理解のみでなく、読者に気づきを促すために、「今、これを読んでいる私」に気づきを促すような、詩的にも美しい文章を何の前触れもなく自身の論考に挿入する。

 まるで台無し。
 けれども、ウィルバーの核心は、そこにある。
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 そうした地点に照らしてインテグラル理論を読むとき、そこで説明されきってしまうような個々の事象について、またこの理論の説明力の高さのゆえに、思考への執着が生じる可能性はないだろうか、と私はかんがえる。ウィルバーも確かにこの点は霊性にまつわるカルト問題と同じくらいに留意しており、自らの理路の仮説性を言うために「これは足の裏の塵のようなものだ」とか「究極的には不要」とまで表現することもあった。それは、知の源泉に眼を向け、対象化しうる知識はどのように優れていようと「それ」ではない、というヴェーダーンタの姿勢にそうものである。しかしながら、インテグラル理論の精緻化に連れて、「仮説」が「定説」のように扱われ、結果として理論の更新可能性を阻害することになってはいないだろうか。そうだとするならば、この他ならぬウィルバーの核心から、インテグラル理論は再度批判的に検討されなければならないし、もしかしたら2)の中間的「霊的」存在の関与も含め、現在のインテグラル運動の停滞要因の主要な理由は、そこにあるのでないかと私はかんがえてしまう。

 繰り返すと、私はヴェーダーンタを現代の思想に耐えうるものとして本質的に編み変えた思想として、ウィルバーを評価する。
 しかしそれゆえの疑問点も、あるということだ。たらいの水とともに赤ん坊を流すことなく、ここから先はーー哲学はいつもそうだかーー知の源泉に立ち返ってかんがえなおしてみたいと思う。

 『インテグラル理論入門』を書いた時点では、前述したような論点で、誰かがウィルバーの継承可能性を問う仕事をするものと思っていた。けれど、数年経っても出ない。妖怪研究と並行して、広く深い意味での霊性への問いのバトンを引き継ぐ形で、ウィルバー論を機会を見つけてまとめてみたいとかんがえ始めている。
 

 
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2016年11月29日

二つのマイノリティ・エッジを超えて

先日、日本トランスパーソナル学会・日本トランスパーソナル心理学・精神医学会の合同大会の2日目に参加してきた。
 
 二日目のみというのは、ちょうどその初日は東洋大学における香川雅信先生の公開研究会があったからで、妖怪に関する研究をしている者としては、多大な関心があったからだ。そして私の上記の学会における個人発表も「妖怪の存在論」に関するものだった。

 さて、2日目のとりわけ午後のシンポジウムを通して、トランスパーソナル心理学の運動の原点確認や、現今のインテグラル・コミュニティが抱える諸問題、修験道を通した「悟りの心理学」、西洋近代思想からの示唆など、興味深い論点がいくつもあったが、なかでもとりわけ興味深かったのがウィルバーとミンデルの思想的体質の差異について会場も交えて語られていたことだった。

 トランスパーソナル心理学は我が国では1990年代の後半に学問的な目的も集約した学会が立ち上がり、すでに15年あまりが経過している。その初期から研究者として参加している身にとっても、非常にかんがえさせるものだった。共感を覚えたのは、パネリストの諸先生方は組織エゴというものに対してたいへんに警戒していることである。これは組織の維持が自己目的化することで、トランスパーソナルは未だマイノリティであるが、それが提起してきたような人間の奥深い領域の探求は、これまでも歴史上たびたび出現してきたものであり、たとえ形や名前が変わろうが、立ち現れ続けるし、生き続けるであろうということだ。
 いみじくもパネリストの一人はそのことを「トランスパーソナルに愛はあるが愛着はない」と表現していた。

 興味深いのは、参加者のなかから「マイノリティ・エッジにこだわる必要はない」という発言が事後に出たことだ。

 これは上述のウィルバーとミンデルの差異とも絡むのだが、私がその時に感じたことは二つある。

 そのことを説明する前に、まずエッジ(edge)という言葉について簡単に述べておくと、これは臨床的には「既知と未知の境界線」のことを意味する。たとえば、私が普段は「心優しい人間である」というアイデンティティを持っているとしよう。しかしある時、烈火のような怒りが襲い、周囲の人間に対してひどく狭量な態度をとってしまったとする。このとき、「怒りくるう自分」は我が身の一部でありながらも、「私」にふさわしくない、厭わしいものとして周辺化される。しかしそれは向き合えたものではないから、身体症状や人生の諸状況といった得体の知れないことどもとして、我が身を苦しみ続ける。この、当人が触れたくても触れられない境界を「エッジ」という。ちなみに妖怪論の文脈では、私はこれを「世界の際(きわ)」と呼んできた。

 さて、マイノリティ・エッジのことに戻ろう。
 私が感じたことのまず第一は、トランスパーソナルの意義に関わることで、人生の意味や価値といった「究極の関心」(ティリッヒ)に惹きつけられる者は、いつの時代も少数者であるかもしれないということだ。人類の意識変容やアセンションといった、ともすると誇大なヴィジョンが「精神世界」から生まれることがあるが、それはつぶさに観察すると、そうした装いとは裏腹に、商業化した現世利益中心であることが多い。また、たとえば中年期や老年期に至っても「本当の私」などに悩むとしたら、「中二病」と揶揄される時勢ではある(笑)
 そうした状況において、真摯に霊性の道を歩もうとするのならば、少数者たらざるをえなくなる。
 しかしそれは同時にそう悪いことではない。かつて柳田國男は自身の不思議体験について「馬鹿馬鹿しいこと」と語ったが、これは自身の切実な欲求に対して距離をとって風通しを良くする態度で、そうした意味で商業主義やその名を借りた自己逃避を注意深く退けるためにも、「トランスパーソナルって、馬鹿馬鹿しいですよね(笑)」というくらいの余裕はあったくらいが心地いいからだ。

 もう一つは、少しく思想的なことで、会場でもその一端は発言させていただいたのだが、「前近代」の問題についてである。
 私がウィルバーに関心を深く抱いたのは、その明晰な発達理論や知を統合的に説明するというコンテンツに対してではなかった。彼なりに坐禅などを通して東洋の諸思想を摂取し、どのような精緻な理論も「空(くう)」に立ち返るためのものであり、究極的には「足の裏の塵」に過ぎないといったような、著作にもしばしば現れる思考態度に惹かれたのである。このことは、二つの可能性を担保する。一つは、どんな理論も仮説でしかないという学問論的には当たり前なことを、しかし高深度の理路として、かつ実存的・現象学的にも表現していること。第二は、だからと言って理論を無用とするのではなく、同時に仮説性の強調により、実存的・学問論的に検証・継承の可能性に開かれていること。

 しかしながら、ウィルバーに魅かれる者は、その精緻な「発達」理論に関心を持つという。
 
 このことがミンデルとの対比にもつながるのだが、「発達」を自明にしてしまうと、「未発達」と見なされたものは、遅れた、劣ったものと見なされがちだということだ。このことは、個人において認知構造が複雑になることが、必ずしも世俗的な「幸福」に寄与しないという心理学上の知見に加えて、以下のような文明論的射程をも持つ。
 すなわち、「前近代」と私たちがかんがえていることどもとの感性的・理性的向き合いに失敗してしまうのである。
 たとえばそれはウィルバーにおいては呪術→神話→宗教のような、文明論的には古典的な社会進化論に無自覚に依拠した理論構成や、その過程でシャーマニズムなど先住民の叡智が軽視されがちだということである。これはピアジェやハーバーマスの影響もあろうが、古典的にはハーバート・スペンサーやフレイザーといった水準を超えるものではない。もし彼が理論的にデュルケームやレヴィ=ストロースと対決していれば、より異なるものとなっていただろう。

 このことは、列島に輸入された時に、致命的な問題をもたらしたと思われる。近年ではそのことは自覚されつつあるが、列島の無意識層として、「永続敗戦」や「戦後的思考」といった形で、ねじれた形で「戦前」と向き合えないところがある。思想的には「近代の超克の挫折もあったために、あの悲惨な戦争「以前」のものは全て野蛮で捨て去られるべきものと考えられた。なぜなら、そのことと向き合おうとすれば、「敗戦の傷」が浮上するからである。これはまた「明治」になった時に江戸「以前」が捨て去られたことの繰り返しでもあった。批評家の山本七平はこうした集合的な心理機制を「裏返し呪縛」と呼んだ。つまりエッジである。そして、その向きあない隙間をぬって、「日本を取り戻せ」という言説や、明治憲法の反措定でしかない古神道的な言説が異様に立ち込めている。

 マイノリティ・エッジとは、この「裏返し呪縛」を解くことへの恐怖でもあるということだ。

 私が「妖怪」を通してかんがえようとしてきたことの一つは、こうした「前近代」が遺してきた叡智(中には過ちもあるかもしれないが)と霊性を再接続することだった。ことごとしく修行と言わなくても、私たちは生活の中で「目に見えないもの」との付き合い方に習熟してきたし、それらは社会的に差別もされてきた漂泊する民間の宗教的職能者やシャーマンによって伝えられてきた(ここにも列島内のマイノリティ・エッジはあったが)。また日本語の構造も、「物質」と「精神」の未分の領域から立ち現れてきている。これらはもちろん、日常的には無自覚で、時代により形は変わるが、死んでいるわけではない。「永続敗戦」のエッジの向こう側に、アニメキャラクターやコンテンツといった形となってささやかな声を届けているだけだ。そうした生命の切れ端と、再接続すること。

 ただしこのことは、控えめに表現しながらも、トランスパーソナルの領域で必ずしも前景化してこなかった。ウィルバーのインテグラル理論を仲間たちと紹介する時も、メインストリームに読まれるという関心と目的を共有したために、「日本」論として断片的に触れるにとどめたところでもある。

 トランスパーソナルとフォークロアの哲学を媒介とした接続。その目的は理論的に表現すれば上に述べてきたような集合的領域の「自覚」であり、やさしく表現するならば、「妖怪と仲良くする」ことだ。

 新著も含めて、今後の仕事の一つは、こうしたことに注力していくことだろう。トランスパーソナルも振り返りの時節に来たのだとしたら、来訪神のごとくにポトポトと戸をただくことを始めても、よかろうと思い始めている。

 
 
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2015年05月17日

人間の息吹がかようチーム論: 西條剛央『チームの力: 構造構成主義による"新"組織論』(ちくま新書、2015年)を読む

 とても面白い本で、一気に読めてしまった。
 読後感を一言でいうと、「息吹がある」感じである。面白いといっても、本には二種類あると思う。一つは、あたかも休日の昼下がりの読書のように、「ああ、いい話をきいた」というだけで、細かい話などは忘れて、いくつかの警句だけを頭に残して、そのうちに忘れ去られるようなものと、そうではなくて、読み手を行動に触発すると同時に、自分の頭でかんがえさせる類いのものだ。
 そしてこの本は、後者にあたる。

 なぜか。
 そこには、「人間」がいるからだ。この本は、人の息吹が通うチーム論、そういうふうに言い換えてもよい。チームとは人が作るものなのだから、あたりまえではないかと思われるかもしれないが、このあたりまえを実践の場から徹底的にかんがえぬき、なおかつその成果をシンプルに表現しているのが本書なのである。それは、単なる海外の組織論の紹介や、個性の強い経営者や監督による個人神話の色彩の強い体験談のような「個別理論」とは異なるということだ。

 本書は、著者が代表をつとめたふんばろう東日本支援プロジェクトという日本最大級のボランティア組織の具体的活動例と照らし合わせながら、著者が培ってきた構造構成主義という哲学上の原理をアップデートし、「あなたの目的に応じた”チーム”の作り方」(p.22)を論じたものである。それは同時に、”希望”を作る力であるとも示唆される。

 ところで構造構成主義とは、「物事の本質からなる原理を把握する学問であり、価値の原理、方法の原理、人間の原理といった原理群からなる体系である」という。そしてここでいう「原理」とは、「いつでもどこでも論理的に考える限り、例外なく洞察できる普遍洞察性を備えた理路を指す」(p.20)という。
 これは著者の前著を読んでいなければ、とても凝縮された難解なフレーズにきこえるところだ。しかし第2章で価値の原理、第3章で方法の原理、第4章で人間の原理、と豊富な具体例とともに説明されることで、輪郭は浮き上がってくる。

 たとえば第3章では、「方法の原理」が「現場に役立つ哲学」(p.104)という文脈で説明される。それは方法の有効性は、状況と目的に応じて決まる、というものだ。だからどんな状況にも対応する絶対的に正しい方法はない、ということになる。
 被災地においては、避難所の統廃合や道路の開通など、時々刻々と状況が変化していた。またそうした状況下において、数多い避難所を回りきることはできない。だから、まずは現地で聞き取った必要な物資の情報をHPに掲載してtwitterにリンクし拡散⇨その仕組みを一枚のチラシにまとめてHPからダウンロードできるようにして、現地に行く人にチラシも配ってもらう、というように、状況に即応した方法を機能させることができたと著者は述べる。
 またこの章では、現在の組織の問題としての前例主義をもたらす埋没コストについても、関係者の関心(たとえばそれまでに積み重ねてきた信頼や実績、投入した資金)の持ち方という観点から、わかりやすく説明されていて、説得的である。「状況によって正しい方法は変わる」(p,118)のだ。

 そして第2章ではチーム作りに役立つ原理として「すべての価値は目的や関心、欲望といったものに応じて(相関して)立ち現れる」(p.61)という「価値の原理」が解き明かされている。
 興味深いのは、ここで著者のリーダーシップ論が展開されていることだ。リーダーシップは組織心理学においても謎の多い領域だという。ビジネス書の棚にいれば、数多くのそうした書物をみつけることができるが、日本人のリーダーシップがそのために向上したということはない。
 なぜか。著者によれば、従来のリーダーシッブ論は科学的研究の罠にはまり、それだけではなく、さまざまな知見やノウハウを使いこなすためのメタ方法論もなかったという。「どういう状況で何をしたいのかを抜きに、どういうリーダーがよいリーダーか、あるいはどういうリーダーシップがよいかを論じることには意味がない」(p.68)のである。人間は欲望や関心に応じて行動するから、他者のふるまいをみていても、その人が本心ではなにをしたいのか=関心を鋭敏に読み取ってしまう。だから、ここでは小手先は通用しないということも述べられている。

 科学的に平均化されたリーダーシッブ論ではなく、こうした一人ひとりの個人に着目する立脚点は、第4章の「人間の原理」の説明でダイレクトに示されている。「すべての人間は関心を充たして生きたいと欲してしまう」(p.151)。ゆえに、機能するチームにおいては、当人のパフォーマンスである「能力」のみではなく、チーム構成員の「関心」も考慮した適材適所の仕組みとしかけが、ここでも多数の例をもとに紹介されている。

 また本章では、そもそも著者が構造構成主義を開発する動機となった人間科学という学際的領域における諸流派の信念対立といった問題が、ボランティア同士の信念対立といったケースを中心に説明され、その克服の方途も示されている。
 たとえば、現地と窓口のあるグループは、ニーズが聞けるために、現地に物資を多く届けたいという関心が生まれ、寄付を多くの方から募る窓口では、支援者の声が多く届くために、支援者の声により多く答えたいという関心が生まれる。このときに、どちらが正しいと言い争っても意味がない。良い/悪いという価値判断をベースにするのではなく、その価値がつとくられるにいたった関心や契機(きっかけ、経験)までかんがえることで、「認め合う」ことや「棲み分ける」可能性が開かれてくることを著者は強調している。

 お開きとして、評者の関心から、二つのことを簡略に述べておきたい。

 まず第一に、評者はふんばろう東日本支援プロジェクトの、ごく地味な末端のひとりとして短期間携わった経験がある。そのためにこの評言が、極度の肯定的な色メガネにわずらわされていないか、ということに留意して、できるだけ書かれた理路の中で納得・感銘を受けたところを紹介したつもりである。それでも、バイアスがかかっていることを畏れるものであることを明記しておきたい。
 しかし、こうした個人的な関わりを超えて、現在、閉塞している組織の有効な代替案としても、将来の日本のありかたをかんがえる上でも、本書がより多くの人に読まれてほしいと思う。

 そして第二に、これはより評者の関心に惹きつけてのことであるが、この組織・チーム論は独自の継承・発展の可能性を持つと思う。
 本書を読み終えて、実は奇妙な懐かしさにとらわれた。それは、たしかに提示されている立脚点は斬新でユニークでもあるが、この日本列島でしなやかな組織が構想されたときに、たえず非明示的にではあれいかされてきた原理だったのではないかということだ。従来の日本の組織論においては、定住と農耕をモデルに、その弊害ばかりが指摘されてきた。

 しかし、たとえば、網野史学などの成果が明らかにするように、諸国を遍歴した宗教的職能者や芸能民の活動や、また歴史的に遡れば縄文期の交易の痕跡にいたるまで、わが国には「しなやかな」組織の系譜というものもあったように思われる。このように、構造構成主義の原理群を補助的な「視点」として、日本の古くて新しい組織のありかたについて、歴史的事例に即しつつかんがえてみることもできるのではないだろうか。

 この本は、そうした意味でも発想と実践の宝庫であろう。


チームの力: 構造構成主義による”新”組織論 (ちくま新書) -
チームの力: 構造構成主義による”新”組織論 (ちくま新書) -
posted by 甲田烈 at 15:08| Comment(0) | 非人称的アプローチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする