2012年02月15日

日本の妖(あやかし)ナビゲーターたち・第2回ご案内

 先年の妖怪講座に引き続き、「日本の妖(あやかし)ナビゲーター」たち(略称AYANABI)と題して、近代日本において最初に「妖怪」を学問の対象とした井上円了(1858〜1919)の足跡をとりあげました。
 前回はその一回目。主に井上の「哲学」「に焦点化して話つつ、妖怪と都市計画の問題や原発の問題など、多岐にわたる討議で盛り上がりました。

 今回はその二回目。
 「仮怪を払い去りて真怪を開き示すにあり〜井上円了のフシギな世界(2)」です。

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 井上は「田学」(でんがく)を志し、終生官途につくことなく全国を巡講し、大学を運営し、かたわら膨大な著作を遺します。「哲学の通俗化」と「哲学の実行化」を二本の柱とし、「哲学は役にたつ」ということを主張しつづけたのです。

 そんな井上が注目したのが「妖怪」でした。東大在学時代に不思議研究会を組織し、こっくりさんの実験を繰り返していくうちに、井上は「心」の不思議に思いをはせていきます。

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 代表作『妖怪学講義』(1893〜1894)は二千ページにわたる長大なものです。
 井上は、「妖怪」を「異常かつ不思議な現象」と定義し、「妖怪の原理」を求めていきます。
 そこには、今日私たちが名付けとともに知っている「幽霊」や「河童」のような種類のものから、おまじないの方法や記憶術、偶然の一致といった諸現象まで、幅広く含まれました。

 井上のモットーは、「仮怪を払い去りて真怪を開き示す」こと。
 世間に「不思議」だと言われている現象は物理・心理の両側面から、哲学を基礎として説明できるのであり、そうした仮の不思議=仮怪の奥に、真の不思議=真怪が現れるのだというのです。最晩年にも「誰か言う天下に妖怪無しと、明月清風悉(コトゴト)く妖怪なり、心地一たび開きて哲眼もて来たれば、妖怪を談ずる我も亦た妖怪なり」という詩を遺した井上の真意は、どこにあったのでしょうか。

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 1901(明治33)年1月21日の「都新聞」には、「井上円了の研究を要すべき奇談なれ」として、次のような事件が報道されています。
 毎夜床下から鳴り響く妖しい鼓の音・・・・。
 床板をはがしても何の気配もなく、呼び寄せた警察官も原因を発見できなかったというのです。また同家には2〜3年前からどこからともなく小石が降り、鉄瓶の蓋が突然空中にとびはねる・・といった事件が続発し「狐狸の仕業ならん」とささやかれていました。

 井上は、全国から報告されるこのような怪事件に、どのように立ち向かったのでしょうか。

 今回は、井上円了の妖怪学の内容そのものに踏み込み、具体的事例についてみなさんと考えながら、その全体像をナビゲートしていきたいと思います。
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 ★タイトル「仮怪を払い去りて真怪を開きしるすにあり〜井上円了の「フシギ」な世界(2)」
 ★開催日時 2月24日(金) 20:00〜21:30

 ★講師 甲田烈(現・相模女子大学非常勤講師:最終学歴 東洋大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学(専攻・仏教学)

 
 ★場所 ジャンクションシティ(http://www.junctioncitytokyo.com/Photo_%26_Cafe_%22Junction_City%22/Home.html)
 Access/ 西武新宿線 新井薬師前駅 南口から徒歩2分 
 Address/ 〒164-0002 東京都中野区上高田3-37-7 サクラディア B1F
 e-mail/ jctアットマークjunctioncitytokyo.com(“アットマーク”を“@”に書き換えてください)

 ★各回参加費 1000円+1order
posted by 甲田烈 at 23:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月11日

哲学・妖怪学のレッスン・講座など承ります

 【哲学・妖怪学の個人レッスン・講座承ります】

 哲学,と聞くと,なんだか難しくてよくわからない。縁遠いと感じられるか,ただ一人黙々と原典に取り組み,袋小路に入ってしまう方が見受けられます。でも,哲学とは,「考える」ことで,自分の軸を発見し,大切に育てて行くことです。誰もが素直に疑問を抱き,問い合い,「考える」力を身につけられたら,それが哲学ということなのです。
 巷には,ビジネス的なものや恋愛に関するものなど,特定の目的に特化した心理技法や「思考法」はたくさんあります。
 それらは,たしかに特定の文脈では効力を発揮するものですが,万能ではありません。誰もが不安な時代に,そうしたものにすがりたくなります。そうしたことでは,,ひとときの安心を得ることはできても,状況が移り変われば,また不安になってしまうのではないでしょうか。
 しかし,さまざまな事や物について深く考えるち力を身につけておけば,それらを小手先の「テクニック」にしてしまうことなく,活かすことができます。

 また,知識・教養として哲学を学びたい方や,最近ブームになっている「妖怪」について深く知りたいという声も聞きます。趣味や教養の力は,自分軸の人生を生きる上で大い潤いをもたらしてくれます。でも,どうせならそれに加えて,「見る」目や「考える」力を育ててみませんか。

 私自身,過去に旅をしながら,各所で投げ銭に近い講座も経験し,そして数回は「哲学」の家庭教師もさせていただいた経験があります。そうしたなかで,「もっとわかりやすく,身近に」,そして探究心を満たすような形で学び続けていきたいという希望をお持ちの方に出会ってきました。
 ぜひとも,教養を高め,かつ考える力を深めるお役に立てれば,と思います。
 お気軽にご相談ください。

 ・日頃から身体・感情ともバランスのとれた論理的思考力を身につけたい方。
 ・教養として哲学史の知識を身につけたい方。
 ・日本の文化である妖怪について学びたい方。
 ・世の中の事件や現象について,自分の頭で考え,他者に流されない判断力を身につけたい方。
 ・子どものような疑問を大切にして,趣味・生活を豊かにしていきたい方。
 ・ご自身のやっている日々の仕事・ボランティア活動などへの哲学的思考の応用について。
 ・悩み相談。こんなとき,「哲学的」にはどう考える?などなど。

 ◆まずはお気軽にご連絡ください。
 連絡先 このブログのメッセージ
     Facebook,mixi 「甲田烈」宛メッセージ。
     メール retsuあっとまーくyg7.so-net.ne.jp(“あっとまーく”を“@”に書き換えてください。)

 ◆レッスン料は1時間4000円から(応相談)
 ◆上記時間は具体的内容に入ってからのものです。
 ◆方法はskyp,もしくはご希望があれば出張いたします(ただし交通費分負担お願いいたします)。
 ◆skypによるグループ,または出張でもゼミ・講座・お茶会形式のものも可能です。
 ◆振込先などは,レッスン・講義の後,お伝えいたします。

 ◆講師・甲田 烈(こうだ れつ) プロフィール
 東洋大学を卒業後,同大学大学院で仏教学を専攻。東洋大学東洋学研究所研究員をへて,現相模女子大学非常勤講師。河合文化教育研究所研究員。また被災地支援ボランティア活動にも携わる。研究領域は比較思想を中心として,近年では構造構成学を中心としたメタ理論研究や妖怪学研究に取り組む。
 所属学会は比較思想学会,日本仏教心理学会など。関連論文多数。
 著書は『手にとるように哲学がわかる本』(かんき出版),共著に『インテグラル理論入門T・U』(春秋社)がある。

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posted by 甲田烈 at 15:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月22日

「志」から男女の反転の話

  以下,こういう比較的どうでもいい「日記体」のものはつらつらなりシリーズとすることにした。
 うつらうつら,つらつらのつらなり,つらのなりみて我がふり直せ,秋のみのりに季節とて,あれにつらなり見たるは一連の。

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 ◆ mixiの研究仲間の発言。「世の中の不思議。ほとんどの人が自分の可能性を低く見積もり、だめだとかできないと思い込んでる。思い込んでるから自分の認知にあった行動をしてそうなっていくという悪循環。」というものをみてふと思った。僕にいわせるとこれは戦後民主主義の負の側面。だから教育から面白くしていかなくちゃ。
  明治人の著作は研究のためもありよく読むのだけれど,彼らからは現代からすると滑稽に思われるくらいに「だめだ,できない」という声は響いてこない。「やれるはずだ」。そして,どうすれば「できるか」を考える。変なポジティブ思考でもない。ある種の真剣さで。「軍国主義」のせいではない。使命感のためだ。いやしくもこの世に生まれた以上は共同体を栄えさせ貧困のない世界を創るのだという。それを「国」という言い方をする。
  ナショナリズムと言うかもしれない。しかしそんなこと言ったら私の好きな円了も含めて幕末生まれ世代はみんなナショナリストでアブナい人だ。なんてったて「宇宙主義」を標榜するわけだから。この誇大妄想とみまがうものは意外とささやかな志操堅固からきているわけだ。
 明治は江戸を消した。あんな野蛮な時代の人間ではないと明治初期〜中期生まれは胸をはった。戦後は戦前を消した。現代は「民主主義」で不自由な世の中ではないのだと。そして平成は昭和を消した。冷戦は終わり経済自由化の時代だと。そして今,一部では同時代を消そうとしている者もいる。しかしよく考えれば常識だが,過去は消すものではなく抱擁し継承するものである。そういうことを歴史を学ぶと強く思う。個人の来歴とて同じ。

◆比べるということ。現代の病の根本の一つはそこにある。自己と「理念」との比較ではなく水平化された自己と他者の比較のこと。己の理想や志操に照らして足らざるを嘆くのは,まだいい。前に進むことができるから。ドングリの生比べたあ,よく言ったものだ。高きところを見よ,なのである。

◆最近,なぜか「いのちの健康」の活動とは関係なく,しかもそと重なりようく考えれば他人の悩みばかり聞かされたりその場に居合わせたりして,いい加減,や〜〜だよ,と,mixi日記に書いたばかり。その流れで,信頼できる方は別として,いわゆる「スピリチュアル系」のコミュニティや知人たちとは遠ざかる決断をした。昨日はその締めみたいな感じで,ある方の「疑似恋愛」の誕生から終焉まで聞いていたのだが,それは仕事のパートナーとなるはずだった方の話で,男も女も「覚悟のねえやつだな」と思いながら聞いていた。要するに,自身のやりたいことが明確ならばぶれない。個人感情が入ったとしても,どう最適化するか考える。無理目だったら自分いたわり止めておく。あるいは高見の見物と決め込むかしばらく物見遊山に出かけそのことを頭から離すかなのだが。お互いに「やりたいこと」がブレている感が伝わってきた。

◆ 不可能を技化するという観点。つまり,「どうしてもそう考える」とか物事に向かい合うときに自身は「こういう角度の感じ方をする」ということを測った上で,それを活かすこと。それができなければ自己完結に終わる。昨日の長い会話で身体感覚の話になったが,身体はそういうところダイレクトなのできちんとキャッチしておく必要がある。他人がどう言おうが,そこが参照軸になるし,豊かなのは軸同士のコミュニケーションがなりたつときだ。それはだから武術の試合に似ている,と僕は思う。

 天使が舞える場所。 相互の自由とはその承認にある。

◆ 概して思う。ちょっと前まで「世間的」に言われていた男・女の差異について,ちょうど真逆に考えそして生物学的差異との間をはかるくらいがちょうどいいのではないかと。
 僕はむしろ女性の好きは好き嫌いは嫌いとか,身近な感覚的愉しみを大切にするとか,方針決めたらぶれないとか,関係でもひきずらないとか,むしろ「さばけた」側面を信頼している。だいたい「女々しい」というのは男性に使う形容句だし,そのとおりだ。自分も含めて男性はむしろ女性からそうした決断力や感受性や意志の強さといった「さばけた」部分を学び,逆に女性は男性から熟慮や関係性の配慮や包容力といったことを学べば,それは逆説的に自身の男性性や女性性を深めるのに寄与するだろうと思う。
 mixiあたりのニュース記事になぜか必ずある「恋愛」記事見ていると,あいも変わらぬ男女でんぐり返った幻想か心理的コントロールドラマを恋・愛と勘違いか意図的に喧伝しているかしているものが多い。しかし実情は,そしてよりふくよかな方向はおそらくその反転した先にある。
 日本は戦後男社会と言われてほころびも出て久しい。大学のいろんな話を聞いても思うけれど,より「女性」的感性が生かされる社会になれば男性も楽だろうと思う。男社会だからこそ女々しくなりアカハラだのパワハラだの起こるのだ。
 おそらく組織も名目的代表は男性で実権は女性が持っているか,さなくば女性代表でも実務のできる男性が傍らにいたほうがバランスができると思う。さて昨日の疑似恋愛話から飛んだが,研究,研究っと。

 軸と背後正面(自分を観ているメタ視座の位置,と表現しておく)を相互承認し,向かい合う間に舞い踊れるだけの間を,さなくば向かい合うのでなく連理となり「志」の共有を,男女については,ありとあらゆる幻想とっぱらって,僕はそう感じている。
posted by 甲田烈 at 16:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする