2017年01月05日

『オイ鬼太郎!ワシの幸福論を聞いてくれ 〜未公開 水木しげるの日記〜』を観る

 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。

 さて、つい先ごろまでNHK・総合で放送されていた『オイ鬼太郎!ワシの幸福論を聞いてくれ 〜未公開 水木しげるの日記〜』を見ていました。

 昨年の12月に刊行した『水木しげると妖怪の哲学』(イーストプレス社)を晩夏から秋にかけての執筆が終わり、最終ゲラの段階には、この番組のテーマとなっている水木しげるの日記が発見されたことは知っていたのですが、実際に触れてはいませんでした。
 ただ、拙著の末尾には、未定稿や日記、書簡の発見により、水木像が編み変わる可能性は示唆していたので、そうした意味ではぜひともチェックしたい内容でした。

 見終わった感想としては、やや駆け足ながら濃厚な構成だったと思う。そして、京極夏彦氏のコメントや佐野史郎氏の日記朗読もかなり効いていて、興味の尽きない内容に思われた。

 書き手にとって、こうした新しい「史料」の発見は、自分が作品の読解に注力することから得られた知見を、むしろ具体的に反証する機会であり、自説が覆されたり、また新たな角度から深堀できるきっかけとして、愉しいものなのです。

 さて、番組内では、一般的には「正義のヒーロー」とされる鬼太郎の、水木にとっての位置を再検証するように始まっていましたが、日記の紹介として「その后の鬼太郎」として落ち目になった鬼太郎がねずみ男によるゴキブリの繁殖を手伝う原案や、編集者による「わかりにくいストーリーはぜったいにざけてください」という手紙も消化されていました。

 私見でも、「鬼太郎」は「正義の味方」ではありません。
 それは勧善懲悪の物語ではなく、むしろ最初期の貸本版シリーズや晩期の「鬼太郎霊団」に描かれているように、世界のバランスを解明しているように思われます。それは生と死とか、幸福と不幸とか、人間と妖怪とか、二項対立にされやすい概念のうち、どちらかを取り出して肥大化させることなく、またどちらの角度に偏ることなく、補い合って存在しているさまを、内在的に描いています。

 こうした観点からすれば、むしろ「鬼太公」がいるおかげで日本は「妖怪後進国なのだ」という「妖怪軍団」のストーリーなど、納得できるものです。

 また、「植物が蜂起する」といったストーリー案は、個人的にはかなり好きな「コケカキイキイ」や「原始さん」に表されているモティーフでもあり、これは水木作品に反復して描かれているものでしょう。

 さらに、水木の東北への旅における「妖怪火のかんじ」というのも、番組の後半における京極氏の「戦略的に懐かしさを取り入れた」ということに通ずるものがあります。ただ、この「感じ」は潜在化している触覚的感じ取りの前景化として、私はかんがえています。どういうことかというと、人間は頭の中で「○○だ」という前に、そのことを「わかって」おり、名付けとか解釈は、そのあとにやってくるということです。「なんとなく、こんな気がする」ということは、ですからバカにはできません。

 それはまた、自己意識としての「私」成立以前の〈私〉に知られている、という意味において、たしかに「懐かしさ」でもあるでしょう。日々を生きている「私」よりも、すでに気づかれてはいるけれども、明確に意識されていないそれは、いのちの世界に近いのですから。

 けれども、こうしたことにとどまらず、示唆的だったのは、水木の日記における「ヒットラー」への度重なる言及です。実は拙著において、水木作品には近藤勇や新講談・宮本武蔵のシリーズ、さらにはこのヒットラーなど、伝記の名作が多いことには言及しながらも、そこでは「神秘家列伝」や「猫楠」の読み解きに注力したために、立ち入ってはいません。
 番組の中では、水木が「絶対的正義」に懐疑的であり、「善人」でも「悪人」でもない人物としてヒットラーを描いていることに焦点が当てられていました。これは水木の伝記作品に深く共通するリアリズムですし、鬼太郎作品の本質としてのバランスにも通じてきます。

 最後に、「幸福」論。
 これは「幸福の七ヵ条」に結実する発想が、かなり早期から確立していたことをうかがわせる内容でした。「好きなことをする」ということのために、「あらゆる努力を惜しまない」ということ、そして、「幸福はここにある」ということ(私はそれを「不可避である」と読み解いてみました)。これは水木幸福論の、ブレない軸であったように思われます。

 こうなってくると、時間をかけてでも、水木しげるの日記の刊行が待たれることになりますね。
 水木しげるの全集も刊行中でもありますし、まだまだ新資料の発掘によって、その像は編み変わっていくと思いますが、注視しつづけたいと思います。

 そして拙著も、水木作品を旅するおともに加えていただければ幸いです。
水木しげると妖怪の哲学 (イースト新書) -
水木しげると妖怪の哲学 (イースト新書) -
posted by 甲田烈 at 23:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月24日

新著『水木しげると妖怪の哲学』刊行予告: 「感じ」から日々生きることへ

 みなさま、ご無沙汰しております。

 ほぼ一年ぶりの更新ということになります。
 
 この間、所属が相模女子大学から東洋大学の井上円了センター客員研究員に変わるなど、身辺でもいくつかのことがありました。
 
 ちょうど更新前のこのBlogの記事が、水木しげるさんの訃報に接してのものでした。
 前後に所用が立て込んで、気の抜けない状態が続いていたのですが、それらが一段落してホッとした後に、しばらく放心状態だったことを覚えています。

 その直後、ある編集の方からご連絡をいただき、「水木しげるについて書いてみないか」というお話をいただきました。なんでも、僕がふんばろう東日本支援プロジェクトに関わっていた頃に知り合った、共通の知人から僕の名前を聞きつけたとのこと。

 学会関係者でなかったことは驚いたのですが、人のご縁はどこでどうめぐるのかわからないものです。

 そしてこのたび、イーストプレス社より拙著『水木しげると妖怪の哲学』が発売になります。すでにAnazonに予約ページがあるので、覗いて(できれば購入して)いただければ幸いです。

 水木しげるさんは、生涯をとおして「妖怪は"感じ"だ」と言い続けてきましたし、まさにそれを多くの作品によって表現してきました。その「感じ」とは、私たちが今、ほかならぬ水木さんの影響もあってそうとイメージしている「キャラクター」ではありません。

 少なくとも、そこに描かれようとしているものが消費されるコンテンツとしての「キャラクター」であるとかんがえてしまったのでは、その本質はとらえられないような気がします。では、「感じ」とは何なのか?

 この本では、ひたすらにそれを追求しようと試みました。
 「哲学」と銘打っていますが、難しいことはありません。だって、毎日それを生きていることが基本となっているのですから。

 そして私たちは、その「生きる」感じを、ふと心づく子ども時代からの空想や、人や景色と接するときの淡いや、祖父や祖母から聞いた昔話や、今日も形を変えて話題となり続ける「妖怪」の世界の根底にも、看取することができるはずです。

 内容や取り上げられている作品は多岐にわたるのですが、同時に網羅的な作品論は意図していないため、取り上げることのできなかった名作も多いのですが、膨大な水木作品に対して触れ直すきっかけになれば幸いです。

 そして、「感じ」から深めて水木作品に触れるときに、それは同時に、私たちが日々生きるこの身体に同時に触れることになる、と私は思います。

 水木ファンや妖怪好き(研究者も含む)の方々はもちろんのこと、アーティストや表現者の方にも興味深い内容となっていると思います。

 ぜひ、愉しんでみてください。


水木しげると妖怪の哲学 (イースト新書) -

2013年12月31日

大晦日にヒーリングハープを

 ユング心理学研究会で知遇をえた所れいさんから、11月に素晴らしいご本を送っていただいた。
http://www.amazon.co.jp/%E6%82%B2%E3%81%97%E3%81%BF%E3%81%8C%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%A6%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%81%8C%E6%BA%80%E3%81%A1%E3%82%8B%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%97CD%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF-%E7%B6%B4%E8%BE%BC%E4%BB%98%E9%8C%B2-CD1%E6%9E%9A%E4%BB%98%E3%81%8D-%E6%89%80-%E3%82%8C%E3%81%84/dp/4837662889/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1388449460&sr=1-1

 『悲しみが消えて喜びが満ちるヒーリングハープCDブック』(マキノ出版)である。
 
 CD付きのムック本、というのは、とても類書が多い。なかには、間に合わせに創ったのではないかと思われるものもあるし、それに誇大広告のようなものさえある。

 けれども、この本は地味で誠実な創りをしている。
 それは奏者が学究でもあるからだろう。
 所さんは1999年にアメリカで「ミュージックプラクティショナー」の資格を取得している。これは「病気の人のベッドのかたわらで静かに音楽を演奏することで、気分を和ませたり、症状による痛みを緩和させたりするための手助け」(p,11)をすることだ。これは全体的に音楽療法の文脈にある。音楽療法の医療的効能として(1)血圧や呼吸を落ち着かせる、(2)痛みを軽減する脳内物質のエンドルフィンの分泌を促す、(3)免疫力を高め、治癒を促進するたんぱく質のグロブリンなどを増加させることがわかっており、この本の中でも医師の飯森洋史の協力による、6名の被験者に対する実験が報告・紹介されている(pp,26-29)。

 けれども、所さんのメッセージの核心は、そんなところにはとどまらない。
 セラピー(癒し)とアルケミー(心の変容)。

 医療的な諸効果が「癒し」に属するのだとすれば、具体的に人が前向きな心やほんとうの輝きを思い出し、具体的な行動で人生を切り開いていくのが「心の変容」だろう。そのなかには、寝たきりの患者さんが演奏を聴いたあと、歩行訓練を始めたというような(p,30)、感動的な例さえある。
 飯森氏は慎重に「未知数の可能性」(p,29)と表現し、中村泰治氏も「「癒す力としての最も重要なエッセンス」として「演奏者の「心」」(p,33)をあげるように、所さんは「アルケミスト」なのだ。

 この本には40分あまりの演奏が収録されたCDがついている。
 曲目は地・水・火・風・木・金・天。
 以下、曲を聴いて自由に湧いたイメージを記してみる。

 地。これは宇宙から地球を観るというより、大地の底から、翻って天空を観るようなイメージがわきあがる曲。
 水。「川」と書かれているけれども、「小川」に違いない。この流れに、ちょこっと顔を出す小石たちも協力している、そんな感じ。
 火。これは燃える「火」そのものではない。火の粉である。火の粉たちが、踊りをおどっている。だがそれはたしかに勢いを持っていて、薄灯りの気流を作り出す。
 風。空間に織り込みをもたらす春風。
 木。地上にはりひろげられる枝や幹といったことだけでなく、なぜか地下茎の「ざわめき」が聞こえてくるような曲。
 金。これは旅のような音色。きっと錬金術とは、物質から金を錬成するという表象とは裏腹に、自己の奥への「旅」を意味する。
 天。虚心坦懐に聴いてみて、本の解説と現れたイメージが一致することに納得した。「螺旋」だ。けれども、それだけではない。

 これらは、勝手に曲を聴いてイメージしたもので、幾度も聴いていれば、また違ったものも沸いてくるだろう。実際、何度か聴くことが推奨されている。

 ふだん、私はあまり音楽を聴くことがない。だから良い聞き手とは言えないだろう。
 そうであるから、なおさらなのか、「癒し」という言葉がともする爛熟し、平板化するなかで、「アルケミー」にも基盤をおいた、こうした営みの生成を、とても愉しく思うのだ。

 年末年始、ヒーリングハープにひたってみるのは、いかが。
 そしてみなさま、良いお年を。


 
posted by 甲田烈 at 10:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする