2013年09月21日

国際井上円了学会大会参加をふりかえって

 この月曜日に、国際井上円了学会の第2回学術大会に参加してきました。
 発表者としてエントリーされたからでもあるのですが、昨年の学会もとても刺激的だったからです。
 けれど、行くときは台風の進路のど真ん中、はたして今日は本当に学会なんてあるの?と思うくらいの悪天候。暴風対策を完璧にしていきましたが、不思議なことに雨にはほとんどあわず、生暖かい、あの台風独特の風が吹き荒れているだけでした。パワーポイントの動作確認もあったので早めに会場につき、動作チェックしてから一休み。
 それにしても東洋大学は創立125周年を超えてがんばっています。『井上円了選集』はオンラインで全てダウンロードできるようになり(※)、この国際学会も含め、さまざまなユニットが「哲学」を前面に出した研究と教育を展開しています。かつての卒業生として、おもむきのある再開発以前の校舎に通ったことから、隔世の感をいだき、ちょっとワクワクしそして緊張しながらの会場入りでした。

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 いくら国内で井上円了研究の進展のための研究環境が整ったとしても、それだけでは実質的な展開は望めません。よくかけ声や一時のお祭り騒ぎとなるプロジェクトがあるように、「機運」というものも味方しなければ、内容のある歩みは期待できないでしょう。
 けれども、昨年も驚いたのは、海外の研究者たちが、井上円了に熱意をもちながら注目しているさまが浮かび上がってきたことです。明治の初期の思想家の多くがそうであるように、円了もとても大きなスケールの人で、現代の専門分化した学問の世界からは、とても評価しつくせないところがあります。東洋大学を創立した実務家にして教育者、日本で初めて心理療法を提唱した心理学者、中野区の哲学堂公園という「哲学」をテーマとしたテーマパークを創ったデザイナー、哲学の一般的普及を志し、啓蒙書も多く書いた啓蒙家、独創的な哲学学説を唱えた哲学者、そしてもちろん生涯にわたり続けられた妖怪研究......。角度や視点により、さまざまな顔を見せる円了は、その言動や思想を歴史的・批判的に検証するにせよ、その発想や思想を現代の世界が抱える諸課題と対峙させ、かつ未来に活きるものとして継承するにせよ、まだ未知数の巨大さを持っていると思います。

 そんな円了を掘り下げていって、愉しくないわけがありません。
 印象に残った発表として、ミチョアカン大学のサバラ氏による、メキシコの教育史をたどりつつ、井上円了の教育思想を「提案」としてどう活かせるのか、という内容のものがありました。東洋大学創建や哲学館事件という歴史的事象はよく知られていますが、その教育思想を展開した著作にも踏み込んで「自然教育」という思想を剔出し、その価値を提示されたことは、教育というアクチュアルな課題と照らしても、とても真摯な問題提起に響きました。また、UCLAのブルフォード氏は、哲学堂公園の最も重要な機能として図書館に着目し、その収蔵書目を精査しつつ、円了の「実践哲学」について議論していました。これも発表後の質問に、図書館の蔵書がなぜ漢籍が多く洋書が無かったのかという会場からの質問も含め、ユニークな観点だと感じていました。日本の近代思想研究では知られたノースフロリダ大学のマラルド氏は、明治の哲学における円了の役割を純正哲学(pure philosophy)の推進に求められ、井上哲次郎との具体的比較や西田哲学への影響も視野に入れた幅広いものでした。日本の研究発表で印象的だったのは、東洋大学の寅野氏による哲学の通俗化への問題提起です。寅野氏は円了の功績を高く評価しつつも、哲学のわかりやすい入門書や講演といった企図のみによって、哲学は本当に市井に生きる人たちのものになるのか?という問題意識に貫かれており、人々が慎重に議論できる場を創ることがそれにつながるのではないかという提案にまで踏み込んだものでした。また、山形大学の平田氏のものは、多岐にわたる内容ながら、とりわけ円了とヤスパースの比較は魅力的なテーマでした。

 個人的には、マラルド氏が互いに世界の諸事象が合い含み合う円了の相容相含説という晩年の立場において、どのようにすればたとえば唯物論と唯心論のような異なる立場が含み合うことになるのか、精緻に解き明かしてはいないという点には疑問なしとしません。円了は『哲学要領(後編)』において、諸立場の移行を「そのものが何であるか?」と徹底的に問い抜くとによってなされると論じているからです。たとえば「モノとは何か?」と問い抜いていくと、問うている者は何かという形で、当体である「心」が浮上してくるようにして、相対する立場が移行していくのです。また哲学の通俗化について「南無絶対無限尊」といった唱念法の提示は初期の立場から逸脱しているとう寅野氏の指摘に関しては、上記の問題とも関連して、円了哲学の実践哲学としての契機を汲み取っていないのではないかという疑問は持ちました。

 おそらく、円了哲学の評価の課題の一つとして、その行(practice)としての契機の適切な検証と継承は大きな問題でしょう。
 とはいえ、これも異なる研究者が、しかも世界から集う中から啓発されたことであり、その意味でも円了の継承を志す者の一人として、とても興味深く、始終、集中しながら聴いていました。

 私自身の発表は、拙いものでしたが、『妖怪学講義』における「真怪」の構造を、その哲学的著作と対照して解明したものです。とりわけて西谷啓治の哲学を補助線として、「真怪」を「直接知」として定位したので、さきの「行」に対する関心も喚起されたのだと思います。また特定の立場に偏らない彼のありかたを「パースペクティブ構造」として示しましたが、ここには日頃から関心のあるウィルバーのインテグラル理論や構造構成学と響き合う側面だと考えています。

 これは会場から友人が撮影してくれた夕日です。真剣に会場の雰囲気に同化しているうちに、台風は過ぎ去っていました(^^)
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 同じく大学前の道路です。
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 今回は初めての国際学会の発表だったため、英訳語を創る予稿集のための論文作成の段階から、緊張の連続でした。これについてもけしろ海外の研究者の論考や発表から教えられることが多く、実際のプレゼン時でも、いくつかの自分なりの課題が残るものでした。これを機に海外の研究者とも交流しつつ、来年もチャレンジしたいと思っています。

 これは学会終えた私の姿。緊張ほぐれつつ、まだぎこちないふうがあります(^^)
 月が、身にしみるように綺麗だったのです。
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 井上円了の著作の多くは文語体か明治の独特の言文一致体で書かれていて、とりわけ読み慣れていない方や、専門外の方からすると、馴染みにくいものがあります。もし今後の研究の進展で海外でも多くの論文が書かれ、いったん英語訳された円了の著作が日本語に再翻訳されたり、研究者が協力して国際的に適用されるような研究のHandbookが創られたりしたときに、また円了研究のステージも一段階あがるかと、愉しい想像をしています。
 そしてもちろん、哲学を基礎とした妖怪研究!

(※井上円了の著作は東洋大学学術情報リポジトリ(https://toyo.repo.nii.ac.jp/)から検索・ダウンロードできます)
posted by 甲田烈 at 04:32| Comment(0) | 妖怪学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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