2011年12月21日

単純な疑問拾遺集・・哲学とポジティブ心理学

 ◆それにしても、「哲学が難しい」というときの「哲学」ってなんなのだろう。率直に疑問だ。もしも「考える」ことが難しいんなら、すでにしてそう「考えている」わけだから、難しいはずはない。そうではなく専門用語、いわゆるドイツ観念論ゆずりの用語とかポストモダンやらの発想とか、そういうものが「難しい」というのなら、「難しい」ということがわかっており、そこでまた「理解しよう」と試み始めるわけだから、これもやっぱり難しくない。もし単純に肌あいがあわないのであれば、それは端的に無縁ということで、そう言えばいいし、その人はやっぱり、そういう「考え」をしているのだから、やはり「考えて」はいるのだ。ううむ、なんでだろ〜〜昔のはやりソングぢゃ、あるまいに。

 ◆う〜〜〜ん。どうしてもビジネス系のポジティブ心理学は「タメにする」ために「だめにする」感があって好きになれない。偏見なのだろうかなあ。マズローのユーサイキアなんかのほうが健全に見えるのは気のせいか??なぜか? マズローの場合、自身の試みを「規範的社会科学」と呼んでおり、価値判断の遂行に自覚的であったからだ。しかし現在のポジティブ心理学の水準はーーたとえばピーターソンにおけるアリストテレスの徳論の密輸入に見られるようにーー未だ「価値」問題に無自覚である。

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 どうもそうしたものは、「こうある」という事実から「こうあるべき」もしくは「こうしたほうがよい」という当為を無批判に導いているところに端的な問題の根がある。まず、事実から当為を導きだすことが可能とすれば、任意の生の理念の多数性という「事実」を説明できなくなってしまおう。その「事実」に無知だったのだと心理学者はいうかもしれない。しかし驚くべきことは、そのような無知がなぜ可能かということだ。そして第二に、「事実」もまた関心に応じて立ち現れるということができる。おおまかにわれわれは「触れる」ということを「事実」の基底においているが、「触れる」ことからは行為が導きだされるだけであって、それは必ずしも抽象的価値判断に帰結しない。たとえば雲は「目に触れる」ものだけれど、だから雲は崇高だとかなんてお下劣だとかいうことにはならない。もちろんそうした価値判断は可能なのだけれど、それは「事実」の触れ方によって多数性を帰結せざるを得ない。
 しかし、もしポジティブ心理学が自己の営為に誠実たりうるとすればーーそれは可能だと思うがーーもちろん任意の生の構想を「仮説」とおいた上で、その「仮説」の帰結ばかりではなくその論理的必然性についての洞察も含めて提示できるはずである。少なくとも私はポジティブ心理学の成果を自身の仕事に導入するにさいし、そうしたことを配視していこうと思う。


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posted by 甲田烈 at 12:09| Comment(0) | ポジティブ哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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