2016年12月04日

「西洋のヴェーダーンタ」を継ぐ者として:ウィルバー批判の後先

 先日、トランスパーソナル関係の2つの学会の合同大会に参加したときに感じたことは、先のBlogで書いた。
 実は、そのときにもう1つ、個人的にはたいへん刺激的な発表を聞いていた。ケン・ウィルバー(Ken Wilber, 1949- )および、彼が中心に提唱するインテグラル理論に基づく諸活動の現状についてである。
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 私がウィルバーの著作に触れたのは、高校2-3年次の「アメリカ文化史」という選択科目であり、その風変わりな内容は、グルジェフやシャーリー・マクレーン、バシャールなどといった多様なニューエイジや神秘思想の著作の抜粋を英語で読むというものだった。そうした中で紹介されたウィルバーは、ここに名前を挙げたような中では、理路がまともに見えた。まとも、というのは、学問的な手続きを抑えた上で、東西思想を綜合する一つのモデルを立ち上げようとしていることが伝わったからである。当時、すでに西田哲学や南方熊楠には触れていたが、どこかそれらと響きあうような、骨太な思想に思えた。早速、『意識のスペクトル』や『無境界』と読み進んだが、この時期のウィルバーが最も面白い、と個人的には今でも思っている。1211649._UY475_SS475_.jpg

 さて、少し時間が空いてーー大学院時代からトランスパーソナル関係の発表は始めていたがーー再びウィルバーを真面目に読んだのは東洋大学の東洋学研究所在籍の時代である。2000年代の初頭だが、この時期、日本トランスパーソナル心理学/精神医学会において、若手のシンポジストの一人として、ウィルバーを多角的に検討するという趣旨のものに参加した前後だった。この時にはすでにウィルバーは『進化の構造』において「インテグラル」という発想を前景化しており、The Collected Works of Ken Wilberという大部な8巻本の集成も刊行中であり、版元のShambhalaでは、オンラインで同時進行するウィルバーのインタビューや投稿された最新の論考を読むことができた。

 ただ、私はウィルバーの理路が著作を追うごとに精緻になり、かつ『進化の構造』においてそれまでにない規模の理論的地図を提示していることに感銘は受けつつも、インド哲学研究の視座からして、疑問点がなくはなかった。その一つは、彼が浄土教を中心とする庶民的な仏教や、インドにおけるヒンドゥー教改革運動の原動力の一つとなったバクティの流れについて、本質的な契機として対決していなかったことであり、もう一つは、現在でもたびたび妖怪論の文脈で強調するように、先住民の世界観や「民俗」ということについて、集合的な進化の低次の段階として以上に取り上げていないことだった。このことは「他界」観や専門的にはアストラル・レヴェルの諸存在について論じきれないという、小さくはない瑕疵をもたらしているように思われた。当時の発表の趣旨もそのようなものだった。

 さて、そのシンポジウムが終わり、懇親会の席上、一人の男性が私に話しかけてきた。なんでも、会場で自分のチャクラがぐるぐると回転しており、なんだろうと見回していたら、その会場の中で「わかっている」人がいるという、それがあなただった、というわけだ。「怪しいやつに話しかけられて困ったな。。」と直感したのは言うまでもない(笑) 私はあくまで思想史的研究の位置に禁欲してその場では話したのであり、自身の体験については語ったわけではないからだ。その語りかけてきた男性をKさんとしよう。Kさんはスピリチュアル・エマージェンーを体験しており、私より先にシンポジストのお一人であったH先生と交流があった。その気安さからでもあろう。濃い会話が通じると思ったらしい。Kさんは当時、占星術師として身を立てようと、全国を旅していた。その途上、何度かご一緒させていただくことにもなったから、縁とは奇妙なものである。

 Kさんは現在も占星術師として霊能をも併用した鑑定を行いながら後進を育成しており、自らの道に進んだことになる。彼を介して、そののち私は「13の月の暦」運動や、こちらは現在も交流が続いているヌーソロジーを知ったのだから、実存的関心を強く持ちつつ、半ば当時は文献学徒であった私には、新しい未知の領域に触れる機会をいただいたとも言える。そののち、Kさんと幾度か対話する中で、アカデミズムに対する辛辣な批判を聞くことがあった。それには首肯できるものも、反論することもあったが、約言していえば、「霊能」的領域が周辺化されてしまうということだった。つまり、非物質的存在との交流や、視える・聴こえると言うことは「ある」のだが、そうしたことが精神病理の枠にされるか、相手にされないという。こうした指摘は、のちに私がメタ理論へと関心を移していく上で、大きな刺激の一つになっている。

 さて、ここでKさんとの交流について長々と述べたのは、別に回顧談をするためではない。
 Kさんのそれ自体は舌足らずで直感的でもある疑義の中に、ウィルバーとどのように対峙するかという点に結びつく論点が示唆されているからだ。

 そのことに移る前に、2000年初頭以降の私のウィルバー読解の軌跡について述べておこう。2010年に入り、私は学会関係者の仲間のプロジェクトに加わり、インテグラル理論の入門書を書くことになった。それは後に『インテグラル理論入門T・U』(春秋社)としてまとめられることになったが、その途上、私は巻末のブックガイドのために、あのウィルバー集成やネット上に公開されていた"Kosmic Karma and Creativity"の草稿群、そして当時は新著であった" Integrl Spirituality"の読解に取り組んだ。気の遠くなるような作業だったが、なんとかまとめることができた。ただその時、「メインストリームに読まれるものにする」(つまりあまり霊性についてつまびらかに触れない)という共通の目標をメンバーと設定したため、とりわけ東西思想に関わる持論の部分は触れずにおいた。
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その当時、インテグラル理論は都市開発、環境、教育、ピジネスやコーチング、そしてもちろん宗教や霊性といった領域への広範な応用が期待され、ネット上にはウィルバーの個人サイトのみならず、"Integral Institute"や"Integral University"といったハブとなりそうな研究機関や大学の構想、"Integral Spiritual Centre"のような実践的プログラムをうたうWebsiteが次々に公開され、"Integral Ecology"のようなウィルバーに劣らない厚さの理論書も刊行されていた。そして、日本でも一部の人々にはウィルバーがメインストリームの思想家として再評価される機運にあった。

 ただ、そうしたことと著作の評価とは別であり、『インテグラル理論入門』は広範に読まれる形跡はそののちみられず、その関係の活動で仕事をする機会も持たなかったことや、震災を挟んで、予てから関心が深かった井上円了研究に重心を移し、とりわけポジティブ心理学におけるPTG(Posttraumatic Growth)や、超メタ理論として知られる構造構成主義を基盤にインテグラル理論の活用を構想した新しいメタ理論・メタ実践法としての「非人称的アプローチ」の開発などに研究関心が移行したので、本体のインテグラル運動の同時代的動向については、Webではなく、2010年代初頭までの英語の最新刊に目を通すこと以外、触れていなかったことになる(ただ、2013年頃に上述の"Integral"を唱導するWebsite にアクセスしようとしたところ、リンク切れとなっており、メンテナンス中なのだろうくらいに思ったことはある)。

 さて、ここでようやく冒頭に触れたインテグラル運動の「現状」に話を戻すことができる。
 ありていにいってそれは、2000年のシリコンバレーのバブル崩壊にともなって資金調達が困難になり、初期のウィルバーのプログラムを実現することが難しくなったため、インテグラルを冠とした諸活動については大幅に規模を縮小せざるをえなくなっていることや、ウィルバー本人ではないが、彼の連携者や協力者である非二元を説くAndrew Cohen、禅のGenpo Roshi、そしてユダヤ教のラビであるMarc Gafniによるコミュニティ内の暴力(abuse)に関するスキャンダルといったことを含む。ウィルバーに関する伝記的紹介や理路の検討として、おそらく最もすぐれている著作の一つである"Ken Wilber: Thought as Passion"の著者として知られるFrank Visserが、他ならぬ先鋭なウィルバー批判者となり、彼の主催するIntregral WorldというWebsite(http://www.integralworld.net/ )には、運動の実践面のみならず理路に立ち入った硬質なインテグラル理論への批判的検討をまとめて読むことができる。とりわけ、上にも少し触れたインテグラル運動の縮小傾向という現状面については、Visserによる次の論考(http://www.integralworld.net/visser75.html )が参考になる。

 さて、しかしながら私は、こうした三面記事にもなりそうなスキャンダルの側面としてのウィルバー批判にはあまり関心がない。もし、そうしたことがあるとすれば、それはウィルバーの「実務家」としての力量の問題であり、それよりも彼自身の理路に不徹底な点があったとかんがえるからだ。では、それはどういうものだろうか。

 ここで細かい議論はしないが、現在のウィルバー批判の諸動向も参照するならば、それは次の3点に要約できると思われる。これらの論点は相互に関連するが、論者の重点は異なる。

 1)インテグラル理論の理路としての整合性やメタ理論としての強度を問うもの。
 ここには、Visserのサイトに寄稿している多くの理論家や、我が国では増田満氏による「ウィルバー・コスモロジーの批判的洞察」(http://book.geocities.jp/fourquadrant2/ )といった労作に代表される。そして私の疑義も一部ここに含まれる。大づかみにその本質を言えば、たとえばウィルバーの部分/全体というホロン階層論が「価値」と「事実」の領域を混同しがちだということであり、このことと関わって、論理階型の異なる事象を無理に一つの図式にまとめてはいないかという疑義である。この大筋から、たとえばウィルバーのポストモダン解釈の妥当性やハードサイエンス領域の知見の不十全性といった個別の検討がなされる。ここにはまたインテグラル理論の「イデオロギー」化に対する懸念も含まれる。

 2)「他界」といった「意識」モデルに回収できない領域や、「精霊」といった非物質的存在の理解に関しての妥当性に直感的な疑問を持つもの。
 ここには、もしかしたら『意識のスペクトル』まではついてこれたかつての読者や、私の知人であるKさんのように「霊能」の領域に実践的・理論的に関心のある、通俗的な「スピリチュアル」や「秘教」に関心の深い者も含まれるかもしれない。そうした動向の特質として、命題レベルでの議論を展開することなく、直感的な疑義を提示するにとどまるため、学問論的には取り上げることが困難で、またその層とも交差しにくいという特質を持つ。しかしながら、中には数多くの著作を持つ菅原浩氏によるもの(http://reisei.way-nifty.com/spiritsoulbody/2006/05/post_124c.html )や、民俗学的観点や「マイヤーズ問題」といった心霊学に関わる領域にも真摯に取組んでいる津城寛文氏による『社会的宗教と他界的宗教の間』(世界思想社、2011年)のように学問的なものもある。
 しかしその多くは先述したように、直感的なものであり、たとえばTeru Sun氏のスピリチュアル・ラボにおける一記事(http://teruterulog.jugem.jp/?eid=659 )のようなものである。インテグラル理論には「密教的側面が欠け」(Teru Sun)ており、「この人には霊的知覚力があまりないのではないか」(菅原浩)ことをあげれば、その雰囲気は掴めると思う。ウィルバーは禅やヴェーダーンタといった「顕教」に依拠したため、霊的な「中間世界」の諸事象についてあまり詳しくなく、結果的にそれが理路の欠陥につながっているのではないかということである。こうした観点は、ウィルバーに比して空海を称揚するといった、やはりヒーラーなどに多いwitter上のつぶやきからも散見される。

 この2)の論点についても、かなり同意できるところと、そうでないところがある。
 前のBlog記事にも触れたが、ウィルバーはかなり無自覚的に社会進化論的傾向のある視点を人類の集合的「進化」を説く時に枠組みとして用いるため、たとえば呪術より宗教が高度な発達を遂げているように描く。また、トランスパーソナル領域を「個」の成熟の上位に置くため、下位の「霊的」次元を上手に説明て゜気ないところもある。しかしたとえばタイの仏教僧はピー(精霊)とコンタクトする呪術師と、自身の心の苦悩からの解放を職掌することの棲み分けを行うと同時にピーの「存在」を認め、『大乗起信論』のような理論書にも「魔」の記述があり、修験道では仏教でありながら山々の神々に感謝を捧げて法螺貝を吹くといった事例が示すように、中間的な「霊的」存在(と確信される事象)との関わりは実践的には避けられない。こうしたことは、西洋化されたマインドフルネスや禅にはうかがい知れない領域ではある。

 しかし他方、こうした「霊能」の自覚は多くの場合、生来の傾向や行に基づきながらも、不安定であり、一定していない。また、自身の視え・聴こえる対象について無条件に外部に「実在」すると感じてしまう傾向にある。感覚と解釈の間に隙間がないのだ。そのため、私がしばしば超感覚的素朴実在論と呼ぶように、「目の前にあるからあるのだ」という素朴実在論と同様の形式になってしまう。また、そこには検証・継承可能性が低いという問題もある。客観的な検証は自然科学的な事象ではないために必要がないかもしれないが、例えば一一定の期間○○というアプローチを試せば△△という事象への了解が高まる、といったような、公共性に開かれた行の形態も少ない。そのため結果としてこれは「守護尊」との契約や個人の信心といった事柄となりやすく、また密室的な共同体に関わるさまざまな問題も惹起する可能性を否定できない。学問的な議論は極めてしにくくなる。

 けれど、強調しておきたいことは、この2)の視点は民俗宗教における救いや庶民レベルの信仰と接続していく論点があり、重要な問題提起であることには変わりがないということだ。

 3)インド哲学・宗教哲学的観点から、その理論の更新可能性と解釈の妥当性を問うもの。
 この3)については、一部のインドにおけるオーロビンド研究者からのもの以外、あまり見ることはできないが、私の主要な論点はここにあり、若手シンポの席でもかつて強調したことだった。

 この点も簡略にまとめたいが、まず私がウィルバーを高く評価し、また継承するに値するとかんがえる一つのポイントを述べておこう。
 それは、西洋のヴェーダーンタ(Western Vedanta)としてである。
 この言葉は『進化の構造』で用いられ、ウィルバーはアウグスティヌス、デカルト、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、フッサール、サルトルの名をあげる。それはどういうことかというと、「哲学ないし知的な意識がその源泉へと眼を向ける(すなわち主観性ないし純粋な自己を目撃する)」(『統合心理学への道』、p.493)ことである。この時、源泉を志向する哲学はジュニャーナ・ヨーガへと移行する、とウィルバーはすぐに続ける。ただしそれは西洋では滅多に現れず、再生可能な行的形態を持たない。しかしそれが一度現れると、非常に深遠なものになる、とも。

 ウィルバーのこうした主張は、彼の最初期の著作から一貫している。そして彼はしばしば、精緻な理路の頭脳的理解のみでなく、読者に気づきを促すために、「今、これを読んでいる私」に気づきを促すような、詩的にも美しい文章を何の前触れもなく自身の論考に挿入する。

 まるで台無し。
 けれども、ウィルバーの核心は、そこにある。
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 そうした地点に照らしてインテグラル理論を読むとき、そこで説明されきってしまうような個々の事象について、またこの理論の説明力の高さのゆえに、思考への執着が生じる可能性はないだろうか、と私はかんがえる。ウィルバーも確かにこの点は霊性にまつわるカルト問題と同じくらいに留意しており、自らの理路の仮説性を言うために「これは足の裏の塵のようなものだ」とか「究極的には不要」とまで表現することもあった。それは、知の源泉に眼を向け、対象化しうる知識はどのように優れていようと「それ」ではない、というヴェーダーンタの姿勢にそうものである。しかしながら、インテグラル理論の精緻化に連れて、「仮説」が「定説」のように扱われ、結果として理論の更新可能性を阻害することになってはいないだろうか。そうだとするならば、この他ならぬウィルバーの核心から、インテグラル理論は再度批判的に検討されなければならないし、もしかしたら2)の中間的「霊的」存在の関与も含め、現在のインテグラル運動の停滞要因の主要な理由は、そこにあるのでないかと私はかんがえてしまう。

 繰り返すと、私はヴェーダーンタを現代の思想に耐えうるものとして本質的に編み変えた思想として、ウィルバーを評価する。
 しかしそれゆえの疑問点も、あるということだ。たらいの水とともに赤ん坊を流すことなく、ここから先はーー哲学はいつもそうだかーー知の源泉に立ち返ってかんがえなおしてみたいと思う。

 『インテグラル理論入門』を書いた時点では、前述したような論点で、誰かがウィルバーの継承可能性を問う仕事をするものと思っていた。けれど、数年経っても出ない。妖怪研究と並行して、広く深い意味での霊性への問いのバトンを引き継ぐ形で、ウィルバー論を機会を見つけてまとめてみたいとかんがえ始めている。
 

 
posted by 甲田烈 at 18:16| Comment(0) | 非人称的アプローチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする