2016年11月29日

二つのマイノリティ・エッジを超えて

先日、日本トランスパーソナル学会・日本トランスパーソナル心理学・精神医学会の合同大会の2日目に参加してきた。
 
 二日目のみというのは、ちょうどその初日は東洋大学における香川雅信先生の公開研究会があったからで、妖怪に関する研究をしている者としては、多大な関心があったからだ。そして私の上記の学会における個人発表も「妖怪の存在論」に関するものだった。

 さて、2日目のとりわけ午後のシンポジウムを通して、トランスパーソナル心理学の運動の原点確認や、現今のインテグラル・コミュニティが抱える諸問題、修験道を通した「悟りの心理学」、西洋近代思想からの示唆など、興味深い論点がいくつもあったが、なかでもとりわけ興味深かったのがウィルバーとミンデルの思想的体質の差異について会場も交えて語られていたことだった。

 トランスパーソナル心理学は我が国では1990年代の後半に学問的な目的も集約した学会が立ち上がり、すでに15年あまりが経過している。その初期から研究者として参加している身にとっても、非常にかんがえさせるものだった。共感を覚えたのは、パネリストの諸先生方は組織エゴというものに対してたいへんに警戒していることである。これは組織の維持が自己目的化することで、トランスパーソナルは未だマイノリティであるが、それが提起してきたような人間の奥深い領域の探求は、これまでも歴史上たびたび出現してきたものであり、たとえ形や名前が変わろうが、立ち現れ続けるし、生き続けるであろうということだ。
 いみじくもパネリストの一人はそのことを「トランスパーソナルに愛はあるが愛着はない」と表現していた。

 興味深いのは、参加者のなかから「マイノリティ・エッジにこだわる必要はない」という発言が事後に出たことだ。

 これは上述のウィルバーとミンデルの差異とも絡むのだが、私がその時に感じたことは二つある。

 そのことを説明する前に、まずエッジ(edge)という言葉について簡単に述べておくと、これは臨床的には「既知と未知の境界線」のことを意味する。たとえば、私が普段は「心優しい人間である」というアイデンティティを持っているとしよう。しかしある時、烈火のような怒りが襲い、周囲の人間に対してひどく狭量な態度をとってしまったとする。このとき、「怒りくるう自分」は我が身の一部でありながらも、「私」にふさわしくない、厭わしいものとして周辺化される。しかしそれは向き合えたものではないから、身体症状や人生の諸状況といった得体の知れないことどもとして、我が身を苦しみ続ける。この、当人が触れたくても触れられない境界を「エッジ」という。ちなみに妖怪論の文脈では、私はこれを「世界の際(きわ)」と呼んできた。

 さて、マイノリティ・エッジのことに戻ろう。
 私が感じたことのまず第一は、トランスパーソナルの意義に関わることで、人生の意味や価値といった「究極の関心」(ティリッヒ)に惹きつけられる者は、いつの時代も少数者であるかもしれないということだ。人類の意識変容やアセンションといった、ともすると誇大なヴィジョンが「精神世界」から生まれることがあるが、それはつぶさに観察すると、そうした装いとは裏腹に、商業化した現世利益中心であることが多い。また、たとえば中年期や老年期に至っても「本当の私」などに悩むとしたら、「中二病」と揶揄される時勢ではある(笑)
 そうした状況において、真摯に霊性の道を歩もうとするのならば、少数者たらざるをえなくなる。
 しかしそれは同時にそう悪いことではない。かつて柳田國男は自身の不思議体験について「馬鹿馬鹿しいこと」と語ったが、これは自身の切実な欲求に対して距離をとって風通しを良くする態度で、そうした意味で商業主義やその名を借りた自己逃避を注意深く退けるためにも、「トランスパーソナルって、馬鹿馬鹿しいですよね(笑)」というくらいの余裕はあったくらいが心地いいからだ。

 もう一つは、少しく思想的なことで、会場でもその一端は発言させていただいたのだが、「前近代」の問題についてである。
 私がウィルバーに関心を深く抱いたのは、その明晰な発達理論や知を統合的に説明するというコンテンツに対してではなかった。彼なりに坐禅などを通して東洋の諸思想を摂取し、どのような精緻な理論も「空(くう)」に立ち返るためのものであり、究極的には「足の裏の塵」に過ぎないといったような、著作にもしばしば現れる思考態度に惹かれたのである。このことは、二つの可能性を担保する。一つは、どんな理論も仮説でしかないという学問論的には当たり前なことを、しかし高深度の理路として、かつ実存的・現象学的にも表現していること。第二は、だからと言って理論を無用とするのではなく、同時に仮説性の強調により、実存的・学問論的に検証・継承の可能性に開かれていること。

 しかしながら、ウィルバーに魅かれる者は、その精緻な「発達」理論に関心を持つという。
 
 このことがミンデルとの対比にもつながるのだが、「発達」を自明にしてしまうと、「未発達」と見なされたものは、遅れた、劣ったものと見なされがちだということだ。このことは、個人において認知構造が複雑になることが、必ずしも世俗的な「幸福」に寄与しないという心理学上の知見に加えて、以下のような文明論的射程をも持つ。
 すなわち、「前近代」と私たちがかんがえていることどもとの感性的・理性的向き合いに失敗してしまうのである。
 たとえばそれはウィルバーにおいては呪術→神話→宗教のような、文明論的には古典的な社会進化論に無自覚に依拠した理論構成や、その過程でシャーマニズムなど先住民の叡智が軽視されがちだということである。これはピアジェやハーバーマスの影響もあろうが、古典的にはハーバート・スペンサーやフレイザーといった水準を超えるものではない。もし彼が理論的にデュルケームやレヴィ=ストロースと対決していれば、より異なるものとなっていただろう。

 このことは、列島に輸入された時に、致命的な問題をもたらしたと思われる。近年ではそのことは自覚されつつあるが、列島の無意識層として、「永続敗戦」や「戦後的思考」といった形で、ねじれた形で「戦前」と向き合えないところがある。思想的には「近代の超克の挫折もあったために、あの悲惨な戦争「以前」のものは全て野蛮で捨て去られるべきものと考えられた。なぜなら、そのことと向き合おうとすれば、「敗戦の傷」が浮上するからである。これはまた「明治」になった時に江戸「以前」が捨て去られたことの繰り返しでもあった。批評家の山本七平はこうした集合的な心理機制を「裏返し呪縛」と呼んだ。つまりエッジである。そして、その向きあない隙間をぬって、「日本を取り戻せ」という言説や、明治憲法の反措定でしかない古神道的な言説が異様に立ち込めている。

 マイノリティ・エッジとは、この「裏返し呪縛」を解くことへの恐怖でもあるということだ。

 私が「妖怪」を通してかんがえようとしてきたことの一つは、こうした「前近代」が遺してきた叡智(中には過ちもあるかもしれないが)と霊性を再接続することだった。ことごとしく修行と言わなくても、私たちは生活の中で「目に見えないもの」との付き合い方に習熟してきたし、それらは社会的に差別もされてきた漂泊する民間の宗教的職能者やシャーマンによって伝えられてきた(ここにも列島内のマイノリティ・エッジはあったが)。また日本語の構造も、「物質」と「精神」の未分の領域から立ち現れてきている。これらはもちろん、日常的には無自覚で、時代により形は変わるが、死んでいるわけではない。「永続敗戦」のエッジの向こう側に、アニメキャラクターやコンテンツといった形となってささやかな声を届けているだけだ。そうした生命の切れ端と、再接続すること。

 ただしこのことは、控えめに表現しながらも、トランスパーソナルの領域で必ずしも前景化してこなかった。ウィルバーのインテグラル理論を仲間たちと紹介する時も、メインストリームに読まれるという関心と目的を共有したために、「日本」論として断片的に触れるにとどめたところでもある。

 トランスパーソナルとフォークロアの哲学を媒介とした接続。その目的は理論的に表現すれば上に述べてきたような集合的領域の「自覚」であり、やさしく表現するならば、「妖怪と仲良くする」ことだ。

 新著も含めて、今後の仕事の一つは、こうしたことに注力していくことだろう。トランスパーソナルも振り返りの時節に来たのだとしたら、来訪神のごとくにポトポトと戸をただくことを始めても、よかろうと思い始めている。

 
 
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posted by 甲田烈 at 22:47| Comment(0) | 非人称的アプローチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする