2012年11月09日

言葉をめぐる断章

 ■最近、ありがたいことに、異なる機会に、「言葉」の意味について考え直すきっかけをいただいている。ひとつは、私が使う言葉と、受け取り手においてかなり言葉の「意味」が違うらしく、そこに気をつけないと誤解されるというご指摘。そしてもう一つは、そも言葉とは何か、という吟味がされず前提となっているということ。

 ■どうも最近、自身の使う言葉が浅い方向に流れがちではあったので、ここで言葉について考え直してみたい。
 たとえていえば、言葉とは沖縄の民俗で知られている、ある成長する石のようなものだと私は考えている。これは育っていくこともあれば、弱ることもある。不思議なことに、言葉における共通了解を吟味しないほうが言葉は通じる。これはどういうことかというと、「沈黙」からでる言葉ということである。

 ■言葉とは何か。断案を下すことはできないが、ほぼこれで間違いなかろうと思うのは、世界を創るものだということである。これはもっとおとなしく「分節」ということもできる。その分節は、言葉がなくてもできるのだが、なぜ言葉かといえば、それは経験を進行させるか深めるときに寄与するその度合いにしたがってのことなのである。よって、たとえば記号としての言葉の理解から言霊的な言葉の理解まで、誤りとは言えない。しかし言葉が最もその生命に近づくのは、言霊的な言葉かそれを通り越した「沈黙」にたどりつき、そこから発せられるときである。

 ■突拍子もまたまたない話になりかけるのでエピソードをいれよう。いわゆる言語障害者たちと社会的には言われる者同士のコミュニケーションを観察してみるとよい。あれはあれで、実は意味の疎通が成立しているのである。たとえば、身体が動かないときに遠くのものをとってもらいたいときや、ちょっと複雑なことを伝えたいときは、ちょっとそちらに意識を向ける、それだけで充分なのである。おそらく人は老いゆく中で、そういう質の言葉を獲得する。熟年老夫婦の会話も、かくやとばかりに。

 ■と、いうことで、実は私ははしから言葉とは二義的なものだと考えている。それをしかし第一義的に考え共通了解を目指すと、かえって通じないという悲喜劇を招く。それは言葉の性質にも由来していて、気にしてもしなくても言葉は通じるものだからであり、かえって気にすることが言葉の機能を阻むのである。
 ところで、はしから二義的といってもこれは重要度の低いということを意味しない。なぜならば、「沈黙」から言葉を出すということは、歴代聖者や詩人とおぼしく困難でもあるからだ。それは成熟した合理性(ことによるとそれを超えて)、無垢な子どもであることだからだ。おそらく人は、子どもに向けて老い、言葉を育てていくのである。

 ■さて、こう書くと学者先生は今度は納得はすまい。ちょっと言葉のことを学問してみる(もちろん厳密にではない)。構造主義科学論や井筒俊彦の哲学も噛み合わせよく考えると、言葉の機能とは動的分節にあると言えまいか。分節のコードは文化にり、そして業界で規定されている。そして実はそこに共通了解可能性がスライドしていくということは含意されているのである。こういうことはしかし動的関係規定性とすでに言われてもいる。では、「動的」とは何か。経験の進行なのである。たとえば、本質を言い当てる局面について考えてみよう。本質とは、それについて普段は知っていたとしても、うまくいいあらわされないものである。では、言葉によって本質を言い当てるときに何が起こるかといえば、経験の生起・照合という形で、言葉の意味が分節され変容されるのである(文学やカウンセリングの世界により妥当する)。またたとえば読書について考えてみよう。われわれがある本を理解するときとは、その本を身体に入れ体得するとき、言い換えればそこに書かれている思想や情景を自身の経験や志向と照合して自身の言葉に鋳直せたとき、あるいは、夢に出るくらいまでに著者との対話が成立したときではないか。私もまだまだなことが多いが、そうでなければ「言葉を使える」とは言わないのである。なぜならば、このように言葉を用いることができたときに、他者の経験を喚起しまた自他の経験を進行させることができるからである。

 ■自身の言葉の深度というより浅度について反省することで想起したのは、浅さというものは、「沈黙」に届きかつそこから発せられていないときにそれは浅くなることである。言い換えれば、可能な限り既存の分節から自由であり、理想的にいえば非分節的分節的に言葉を発せられるときである。
 さて、この言葉ははたして響くのだろうか。もし響くのだとすれば、それは対者の沈黙に達し経験の生起に寄与しているときであろう。もしそうでないとしたら、それはまだ記号の域にまでしか届いていない、つまりそこにはざわつきがあるのだ。

 一切を取り去れ、とは、ここでも言えることなのである。
posted by 甲田烈 at 11:22| Comment(0) | 非人称的アプローチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする